「シキュオンのクレイステネス」の版間の差分

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'''クレイステネス'''(希:Κλεισθένης:{{lang|el|Κλεισθένης}}、ラテン文字転記:Cleisthenes、生没年不明)は[[紀元前6世紀]]の[[シキュオン]]の[[僭主]]である。
 
クレイステネスは[[アリストニュモス]]の子である<ref>パウサニアス, II. 8. 1</ref>。クレイステネスは娘の[[アガリステ]]を[[古代ギリシア|ギリシア]]で最も優れた青年に嫁がせようとして、集まってきた貴公子たちをテストした。その結果、[[アテナイ]]人の[[ヒッポクレイデス]]を選んだが、宴での彼の恥知らずな振る舞いのために縁談は取り消しになり、代わりにアテナイの貴族[[メガクレス]]に決まった。メガクレスはアガリステとの間に祖父と同名で、後にアテナイ民主制の改革者となる[[クレイステネス]]を儲けた<ref>ヘロドトス, V. 67; VI. 126-130</ref>。
 
年代は不明であるが、クレイステネスの在位中にシキュオンが[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]と戦争状態にあった時、彼はアルゴスが賞賛されているという理由でシキュオンで叙事詩物語の競演を禁止させ、アルゴスの英雄[[アドラストス]]の廟や供犠、祭礼を強引に[[メラニッポス]]のそれに変えさせた<ref>ibidヘロドトス, VI. 67</ref>。
 
[[紀元前595年]]にクレイステネスは[[隣保同盟]]を支援して[[第一次神聖戦争]]に参加し、[[デルフォイ]]の聖域を勝手に使っていた[[キラ]]と戦った。彼はキラを包囲してこれを下した<ref>パウサニアス, X. 37. 6</ref><ref>ポリュアイノス, III. 5</ref><ref>フロンティヌス, III. 7</ref>。そして、キラからの戦利品で「クレイステネス柱廊」を建てた<ref>パウサニアス, II. 9. 6</ref>。
 
[[紀元前586年]]の[[オリュンピア祭]]でクレイステネスは[[戦車競争]]で優勝した<ref>ibidパウサニアス, X. 7. 6</ref>。
 
== 註 ==