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[[File:King Sho Boku.jpg|right|thumb|200px|向元瑚筆『尚穆王御後絵』]]
'''向 元瑚'''(しょう げんこ、[[1784年]] - [[1841年]])は、[[琉球王国]]の[[画家]]。和名は'''小橋川 朝安'''(こばしがわ ちょうあん)。
 
==概要==
[[尚真王]]の第三子・[[今帰仁朝典|今帰仁王子朝典]]の末裔で里之子の生まれだが、祖父朝展が仕事で失敗し没落した。朝教も早逝したことで家庭は困窮していた。[[1774年]]([[乾隆]]39年)、納殿筆者となり、以後は絵を続けながら官僚としても働く。[[1776年]]12(乾隆41年)12月、19歳で[[貝摺奉行]][[絵師]]となり、同時に若里之子に任じる。[[乾隆391780年]]、納殿筆者。以後絵を続けながら官僚的な仕事に就く。[[乾隆45年]])には黄冠を授かり、[[1792年]](乾隆57年]])には御物奉行筆者に栄転した<ref name=kamakura191>[[鎌倉芳太郎]]『沖縄文化の遺宝 本文編岩波書店、p. 191</ref>。[[1795年]]、[[円覚寺 (正編那覇市)|円覚寺]]で[[尚穆王]]の[[御後絵]]を執筆し、また[[1796年]]、同じく円覚寺にて王命により、島袋宗雍(張忠令)と[[泉川寛英]](慎思九)を助手として、[[尚円王]]から[[尚哲王]]までの尊像の控えをそれぞれ大小二幅制作した。[[1803年]]に、[[尚温王]]の御後絵を制作した<ref>鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 本文編』岩波書店]]、p. 191頁220</ref>
 
技法的伝統を誰から継承したかは不明だが<ref name=kamakura191/>、[[尚穆王]]以後5代の[[琉球国王|国王]]に仕え、[[御後絵]](国王の肖像)や[[花鳥画]]をよくした。とりわけ虎の図を得意としたが、作品は[[沖縄戦]]でほとんど焼失した<ref>『[[琉球新報]]』2003年3月1日</ref><ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>。
技法的伝統を誰から継承したかは不明。<ref>[[鎌倉芳太郎]]『沖縄文化の遺宝』(正編)[[岩波書店]] 191頁</ref>
[[尚穆王]]以後5代の国王に仕え、[[御後絵]](国王の肖像)や[[花鳥画]]をよくした。とりわけ虎の図を得意としたが、作品は[[沖縄戦]]でほとんど焼失した<ref>『[[琉球新報]]』2003年3月1日</ref><ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>。
[[1795年]]、[[円覚寺]]で[[尚穆王]]御後絵を執筆。また[[1796年]]、同じく円覚寺で命により尚円から尚哲までの尊像のひかえをそれぞれ大小二幅制作した。助手は張忠令島袋宗雍、及び慎思九[[泉川寛英]]であった。[[1803年]]、[[尚温王]]の御後絵を制作。<ref>[[鎌倉芳太郎]]『沖縄文化の遺宝』(正編)[[岩波書店]] 220頁</ref>
 
==『沖縄文化の遺宝』所載の作品==