「封建制」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Free02 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Free02 (会話) による ID:66074034 の版を取り消し
1行目:
{{統治体制}}
'''封建制'''(ほうけんせい)とは、上位の[[君主]]が、臣下に対して、その領地支配を認め、[[爵位]]を与え、臣従(貢納・軍事奉仕等)を義務づける社会制度を指す。[[漢語]]の「分封建国」に由来する。
* [[中国]]など[[漢字文化圏]]における政治思想において主張された、[[周]]王朝を規範とする政治制度。
* [[西欧]][[中世]]社会を特徴づける社会経済制度である'''フューダリズム'''(''Feudalism'')。Feudalismの訳語として、近・現代になって、[[漢文]]古典の「封建制」という言葉を援用・転用したもの。
7行目:
 
== 中世封建制度(フューダリズム) ==
'''フューダリズム'''('''Feudalism''')とは[[歴史学]]において[[中世]]北西部欧州社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳される。土地と軍事的な奉仕を媒介とした[[教皇]][[皇帝]][[国王]][[封建領主|領主]]・家臣の間の契約に基づく緩やかな主従関係により形成される分権的社会制度で、近世以降の中央集権制を基盤とした[[主権国家]]や[[絶対王政]]の台頭の中で解消した。
 
[[マルクス主義]]歴史学([[唯物史観]])においては、[[生産力]]の[[進歩]]に伴い拡大するとされる生産関係の[[上部構造]]と[[下部構造]]の間の[[矛盾]]発生とこの矛盾の[[弁証法]]的な発展解消を基盤として普遍的な歴史進歩の法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みられた。この場合、おおよそ[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]社会を典型とみなす[[古代]]の[[奴隷制]]が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を[[農奴]]として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示し、この制度が認められる歴史段階を[[中世]]と定義する。
24行目:
日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。ひとつは[[鎌倉幕府]]の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された[[在地領主]]の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として[[鎌倉幕府]]が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいたわけではない)とみなす。従って[[承平天慶の乱]](承平5年、[[935年]])がその初期の現われとみなされる。一方、日本中世史と日本近世史の間で、[[1953年]]から[[1960年代]]にかけて[[日本封建制成立論争]]が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った[[安良城盛昭]]は、[[太閤検地]]実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=[[古代]])とし、[[太閤検地]]を画期として成立する[[幕藩体制]]を日本の封建制と規定した。他には、[[院政期]]以降を成立期とする説([[戸田芳実]]など)、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]内乱期を成立期とする説([[永原慶二]]など)が提起された。
 
中国の儒家思想で当てはめた場合、平安期までが中央から派遣される地方官たる[[国司]]が地方の統治単位である[[令制国]]を実効統治する「[[郡県制]]」であり、鎌倉期以降が在地領主である[[武士]]が[[荘園]]・[[国衙領]]単位で実効統治を行う封建制となる<!-- 参考・後述の『日本中世史像の再検討』 -->(中国史学に基づくと12世紀末から19世紀が封建制となる)。これに対し、ヨーロッパ史学の影響を受けた[[福田徳三]]は『日本経済史論』において、[[延喜]]の治後、[[931年]]から[[1602年]]までを封建時代と解し、[[1603年]]から[[1867年]](近世江戸期)を「専制的警察国家」(絶対主義)と定義した<ref>[[網野善彦]] [[石井進 (歴史学者)|石井進]] [[上横手雅敬]] [[大隅和雄]] [[勝俣鎭夫]] 『日本中世史像の再検討』 [[山川出版社]] 1988年 p.72.なお、[[18世紀]][[フランス]]の『[[法の精神#本書における日本|法の精神]]』においても専制国家として日本が紹介されている。</ref>。
 
=== 中国における発展段階論 ===
''周の封建制''(後述)とは別に、[[中国史]]において唯物史観的発展段階論を適用した場合の封建制について述べる。
 
[[郭沫若]]はその著書『中国古代社会史研究』の中に於いて中国史に発展段階論を適用し、[[周|西周]]を[[奴隷制]]の時代とし、[[春秋時代]]以降を封建制とした。これに対して[[呂振羽]]は[[殷]]を奴隷制、[[周]]代を封建制の社会だとして反論し、この論争は結論を見ないままに終わることになる。
 
これらの論の基準となる所は封建制の特徴とされる[[農奴]]の存在である。現在は春秋時代までの農耕民と牧畜民という文化の異なる都市国家・小国家間の戦争による捕虜などを供給源とした時代の奴婢を奴隷と見做し、戦国時代以降唐末までの奴婢を農奴と見る。
42行目:
<!--[[殷]]初期から封建制が行われていたとみられるが、殷代封建制については詳しくはわからない。殷代には封建された国とは別に方国という国が存在しており、これらを外様あるいは異民族の国とする説がある。殷を方国の連盟の盟主と見る場合、封建された国はより殷の支配の強い国々であったと考えられ、したがって殷代には同族や直接支配下にあった部族の有力者が封建されたと考えられる。殷代の封建された所領について地名を比定する研究が続いている。-->
 
[[周]]の時代には、封建制が成立し、各地に[[邑]]を基盤とした[[氏族]]共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。
 
長子相続を根幹する体制を[[宗族]]制度といい、封建制度にも<!--宗族制度と封建制度には当然-->関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。
54行目:
戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、[[郡県制]]に置き換えられた。[[秦]]の[[始皇帝]]は中国を統一すると全てを郡と県に分け、中国全土を完全な[[中央集権]]的郡県制で支配した。その秦を滅ぼした[[前漢]]では郡県を布く地方と新たに諸侯王を封建する地方とに分ける[[郡国制]]を行った。当初は諸侯に貨幣鋳造権や軍事権が認められていたが、徐々にこのような権力は回収された。後漢時代になると恩給と変わらず、それも形骸化して、爵位だけを授ける[[封爵制]]として存続した。
 
周の[[礼制]]を規範とする[[儒教]]では周の封建制を重視するが、[[中央集権]]的な[[官僚制]]とは大きな矛盾をはらみ、たびたび[[封建論]]あるいは郡県論として論議された(ここでいう封建制・郡県制は実際のものではなく儒教思想上の観念的なもの)。特に[[明]]の[[東林党]]や遺老の学が有名であり、そこでは官僚が責任者として自発的に地方統治を行うための制度として封建制が議論された。[[顧炎武]]は「封建の意を郡県に寓す」という郡県制のなかに封建制を組み込ませ、地方分権型の政治体制を主張している。
 
==脚注==