「第一次エチオピア戦争」の版間の差分

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'''第一次エチオピア戦争'''(だいいちじエチオピアせんそう、First Italo–Ethiopian War)は、[[1889年]]から[[1896年]]にかけて戦われた、[[エチオピア帝国]]とその植民地化を図る[[イタリア王国]]との戦争。エチオピアに対する当時のヨーロッパ側からの俗称である[[アビシニア]]を用いて、(第一次)'''アビシニア戦争'''とも呼ばれる。
 
== 背景 ==
当時、アフリカ唯一の独立国と呼ばれたエチオピアはラスと呼ばれる地方軍閥による反乱と王位簒奪が繰り返される時代を迎えており、周辺国([[スーダン]]など)との戦争も行われていた。加えて[[テオドロス2世 (エチオピア皇帝)|テオドロス2世]]の時代にイギリス軍との[[マグダラの戦い]]に敗れ、ヨハンネス4世の時代にはイタリア王国との間で[[エリトリア戦争]]が勃発、[[エリトリア]]を実効支配されるなど海外勢の侵略も本格化していた。
 
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イタリア政府は経済面の問題から、増援を送らずオレステ・バラティエリ将軍のエリトリア駐屯軍に侵攻を命じた。この背景には[[エリトリア戦争]]での経験から、非近代的なエチオピア軍は数的に多数でも火力で圧倒できると踏んでいた為でもあった。またエチオピア内のラスが反乱を起こす可能性も考慮されていた。
 
== 戦況 ==
===勝利から泥沼へ===
1893年にイタリアのエリトリア駐屯軍は同地に接するティグレ地方に侵攻を開始、メネリク2世の強権の前に意外にも予想された大規模な反乱は起こらず、少なくともアムハラ系軍閥は結束して戦場に向かった。加えてイタリアにとって最大の誤算は、エチオピアの皇帝直轄軍が数年の間に極めて先進的な装備を手にしていた事だった。イタリアの進出を危惧したフランスは、自国の貿易利益の拡充とスーダン軍への対処も含めてメネリク2世に膨大な銃火器や大砲を売却していた。こうした「敵の敵」からの輸入による軍近代化は国産による根本的な近代化ではなかったが、間近に迫る危機には大いに役立った。
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捕らえられた兵士の内、イタリア人兵士は戦後の関係回復を望んだメネリク2世の方針で手厚く扱われた。しかしエリトリア人兵士や反乱兵は「裏切り者」として右手と左足を切り落とす残忍な刑に処せられた。
 
== 戦後 ==
メネリク2世は首都[[アディスアベバ]]に帰還して、この思いがけない勝利にイタリア政府がどう反応するかを窺った。イタリア国内では(軍の規模に差はあるものの)[[アイラウの戦い]]の[[フランス帝国]]軍よりも高い戦死率を前に、継戦論よりも植民地戦争に対する幻滅の方が王国内に広がっていた。
 
2週間後、フランチェスコ・クリスピ政権は民衆の罵声の中で崩壊することになった。その後、エチオピアを訪問した新政権の外交団とメネリク2世の間で[[アディスアベバ条約]]が締結され、「本来の」ウッチャリ条約と同じ内容(エチオピア独立承認、エリトリアの割譲)が確約された。条約の締結後、フランスとイギリスも相次いでメネリク2世を訪問して自国の権益について話し合いの場を持った。
 
その後、エチオピアの独立は[[第二次エチオピア戦争]]まで維持されることになる。
 
== 関連項目 ==