「成瀬正一 (フランス文学者)」の版間の差分
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[[成瀬正恭]]([[十五銀行]]頭取)の長男として神奈川県 横浜市に生まれる。
麻布中学校、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]英文科卒業。大学在学中に[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]、[[菊池寛]]、[[松岡譲]]と第4次『[[新思潮]]』を創刊する。菊池の一高退学以降、菊池の学費や生活の工面を成瀬の父親が世話しており、菊池の小説「[[大島ができる話]]」のモデルとなったのは成瀬の母親の峰子である。芥川と時を同じくして『ジャン・クリストフ』を読み、ロマン・ロランと彼の平和主義を敬愛しロランと文通するようになる<ref>[[芥川龍之介]]『
==米国留学と欧州での経験(1916~1918)==
1916年、卒業後まもなく渡米<ref>「
==パリでの生活(1921~1925)==
1919年、川崎福子([[川崎正蔵]]の孫、川崎芳太郎の長女)と結婚。1921年、福子を伴ってパリに居を移し、4年の長きに渡り、ソルボンヌ(旧パリ大学の文学部)や文学サロンに於いて、又個人教師によって、仏蘭西浪漫主義思想の研究に没頭した。この間研究対象とした膨大な書物は現在も九州大学附属図書館内成瀬文庫(2138冊)に見ることができる<ref>[https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/naruse 成瀬文庫 | 九州大学附属図書館]</ref>。
パリ生活の初期、1921年の春から年末にかけて、川崎家を通して予てよりの知己である[[松方幸次郎]]の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 松方のベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等のパリ画廊画商めぐりに、時には[[矢代幸雄]]と共に、屡々同行し、特にクールベとギュスターブ・モローの作品購入を勧めた。福子は当地の人気画家ジョルジュ・デスパニャに師事していたので、デスパニャの作品が松方コレクションに数多く収蔵されているのはこの事と関係があるのかもしれない。
パリ郊外ジベルニーのモネ邸には、妻の福子、松方幸次郎、黒木三次・竹子(松方の姪)夫妻、[[坂崎坦]](美術史家)などを伴って80歳を超えたクロード・モネを訪れ、モネの長男の妻ブランシュ・オシュデや次男ミッシェルとも親交が深かった。 松方を伴った初回、福子と竹子は振袖姿で訪問したというエピソードもある。1923年には、福子と[[ジョルジュ・クレマンソー]]と共にヌイイの病院に白内障の手術のため入院していたモネを見舞った。[[File:Claude Monet and Fukuko Naruse.jpg|thumb|right|300px|1921年 ジベルニーにて成瀬正一撮影。向かって左からミッシェル・モネ、クロード・モネ、成瀬福子、ブランシュ・オシュデ・モネ]]成瀬はレオンス・ベネディット([[Léonce Bénédite]][[リュクサンブール美術館]]長、後の[[ロダン美術館]]長)とも懇意で、ベネディットから直接ロダン作ヴィクトル・ユゴーの石膏像を購入したが、この像は第二次大戦の戦後混乱時に東京で所在不明となった。
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*[[池上忠治]] 「モネと日本」『印象派100年 光と色彩の交響 モネ展』、読売新聞社、1973年
*石岡久子 翻刻『成瀬正一日記』1911~1916、「香川大学国文研究」1996~2017、香川大学国文学会
*[[関口安義]]、{{PDFlink|[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8210338_po_l190105.pdf?contentNo=1&alternativeNo 成瀬正一の道程(I)──ロマン・ロランとの交流
*[[関口安義]]、{{PDFlink|[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8210346_po_l190203.pdf?contentNo=1&alternativeNo 成瀬正一の道程(II)──松方コレクションとのかかわり]
*[[関口安義]]、[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4043&item_no=1&page_id=13&block_id=21 第四次『新思潮』と成瀬正一]、早稲田大学リポジトリ
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