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[[泰始 (晋)|泰始]]6年([[270年]])、[[雍州]]・[[涼州]]で異民族の大規模な反乱が起き[[石鑒_(西晋)|石鑒]]が鎮圧に失敗すると、[[任ガイ|任愷]]は司馬炎に対し賈充を鎮圧に赴かせるよう進言した。しかし任愷はかねてから賈充を快く思っておらず、賈充もまた任愷を非難していたので、この進言は賈充を外地に出させるための讒言であったと考えられる。賈充は送別の宴で[[荀勗]]と画策した。荀勗は[[恵帝_(晋)|司馬衷]](太子)の妃に賈充の娘<ref>最初に賈午が候補に挙がり、後に姉の賈南風に落ち着いた。</ref>を嫁がせれば、[[洛陽]]を離れる必要はないと助言した。さっそく荀勗が宴に戻り、賈充の娘を司馬衷に嫁がせるよう主張すると、[[荀顗]]と[[楊艶|武元楊皇后]]も賛同した。こうして婚姻が行われることになり、賈充は洛陽に留まることができた。また、[[羊コ|羊祜]]も内密に賈充の赴任反対を奏上しており、司馬炎にそのことを知らされると、賈充は羊祜に対し「君が徳に優れていることを初めて知った」と礼を述べた。
 
両者の確執は、賈充派と任愷派の派閥抗争にも発展した。賈充は任愷を帝との接触が少ない[[尚書]]に転任させ、司馬炎から遠ざけることで両者の離間を謀った。これにより任愷を失脚させることに成功したという。また賈充は酒席で任愷派の庾純に、親の世話をせずに官職に就いている(儒教のモラルでは問題であり、泰始律令にも規定があったが、庾純は兄弟が辞職して世話をしていたので法的には問題なかった)ことを当てこすったことがあった。庾純は怒り「高貴郷公(曹髦)はどこにいるのか」と、曹髦殺害の責任を匂わせて非難した。庾純はのちに、酒が入った上での発言であったと謝罪し、結局辞職した。
 
[[呉 (三国)|呉]]征伐には終始消極的で、羊祜亡き後も[[杜預]]や[[張華]]といった主戦派を批判し続けた。