「田川誠一」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
m bot: 自由民主党 (日本) link
63行目:
*[[神奈川県]][[横須賀市]]出身。田川家は大[[地主]]の[[家系]]。[[1941年]][[12月]][[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業後、[[朝日新聞社]]に入社したが、翌年に[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・近衛歩兵第五連隊補充隊(東部第八連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。<br/>同社退社後、[[松村謙三]]衆議院議員(元[[文部大臣]])秘書を経て、[[1960年]]に衆議院選挙に初当選。以後旧神奈川2区から11回連続当選。
 
*[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]時代は「[[ハト派]]」議員として活動し、科学技術[[政務次官]]などを歴任。後に旧神奈川2区から[[小泉純一郎]]が当選したが、選挙区内の郵政関係各団体は田川支援していたため、小泉と郵政各団体との関係は悪化したとされる。
 
*[[1976年]]、[[河野洋平]](田川の[[従弟]])、[[山口敏夫]]らと共に自民党を離党し、新自由クラブの結成に参加。[[西岡武夫]]が路線対立で離党した後、その後任として幹事長に就任。<br/>[[1979年]]、総選挙敗北で新自由クラブ代表を辞任した河野に代わりに第2代代表に就任。<br/>[[四十日抗争]]の後、当時首相であった[[大平正芳]]が、首班指名で新自由クラブの協力の見返りとして入閣させようとしたが、自民党内の反発で実現しなかった<ref>[[第2次大平内閣]]発足時に文部大臣のポストが空いていたが、幻となった(文部大臣には自身と当選同期で大平派の[[谷垣専一]]が就任)。</ref>。[[1983年]]、総選挙で過半数割れとなった自民党と[[連立内閣]]を組み、[[第2次中曽根内閣]]の[[自治大臣]]に就任。「張り切り外様大臣」「田川曽根内閣」と揶揄されたこともあった。