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'''諸葛 {{JIS2004フォント|靚}}'''(しょかつ せい、生没年不詳、{{JIS2004フォント|靚}}は{{CP932フォント|}}+見)は、[[三国志|中国三国時代]]に[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]に仕えた[[武将]]。[[字]]は'''仲思'''といい、[[諸葛誕]]の末子であり、{{ill2仮リンク|諸葛頤|zh|诸葛颐}}・[[諸葛恢]]の父である。[[諸葛瑾]]・[[諸葛亮]]とは同族にあたる。
 
[[西晋|晋]]の武帝[[司馬炎]]とは幼なじみである。
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諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は5・600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。
諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。
張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛{{JIS2004フォント|}}は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。
 
呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を[[大司馬]]に取り立てようとした。だが彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である[[洛陽]]のある方向を向かなかったという。
 
== 逸話 ==
朝廷において宴会が催された際、孫晧が「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と訊ねた。諸葛{{JIS2004フォント|}}は「家にあっては孝行を思い、君主に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と答えた。孫晧は満足し、諸葛{{JIS2004フォント|}}の肩を叩き笑いながら去っていった。
 
呉が滅んだ後、司馬炎は諸葛{{JIS2004フォント|}}とどうにかして連絡を取ろうしたが、彼は取り合おうとはしなかった。司馬炎の叔父司馬伷は、諸葛{{JIS2004フォント|}}の姉を妃としていた。そこで、司馬炎は諸葛妃に頼みこんで諸葛{{JIS2004フォント|}}を招かせ、諸葛{{JIS2004フォント|}}が入るのを見計らって、司馬炎も部屋に入った。諸葛{{JIS2004フォント|}}が廁まで逃げていくのを、司馬炎は追いかけて顔を合わせた。挨拶がおわり酒がめぐったとき、司馬炎が「今日ようやく再会できた。あなたはかつての竹馬の交わりを覚えているかね?」と訊ねた。諸葛{{JIS2004フォント|}}は「臣は炭を呑んで漆を身に塗る(恩を受けた人間の仇をとろうとした[[豫譲]]の故事)ことができず、今日ふたたびご聖顔を拝することになってしまいました」と言うなり、涙をはらはらと流した。それを見ているうちに、司馬炎は恥ずかしくなり部屋を出ていった。
 
== 評価 ==
諸葛{{JIS2004フォント|}}は文雅端正にして才能徳望があったという。
 
また、孝行ぶりを極めたものとして後の世にも評判となり、「[[嵆紹]]・諸葛{{JIS2004フォント|}}の二人を見て、はじめて忠孝の道が理解できるのだ」と、称賛を受けた。
 
== 家系図 ==
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