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午前11時30分、阿部司令官は『艦爆20機の攻撃で比叡3罐使用不能、操舵復旧不可能、曳航不可能』とトラック島の連合艦隊司令部・[[山本五十六]]司令長官に報告、同時に比叡の処分を決定した<ref>[[#豊田撃沈]]p.172、[[#11戦隊詳報(5)]]pp.35-36</ref>。阿部司令官の命令に対し、比叡の西田艦長は復旧見込みありと反論する<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.36</ref>。そこにアメリカ軍機が再び出現、この雷撃隊はエンタープライズ第10雷撃隊だった。彼らはヘンダーソン飛行場に着陸すると補給を行い、再度出撃してきたのである。TBFアベンジャーは補給が間に合わなかったことから6機に減っていたが、ワイルドキャットの数は変わらず、加えて[[アメリカ海兵隊]]の[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]8機が同行した<ref name="BIGE上280">[[#BIG E上]]p.280</ref>。第10雷撃隊は比叡の右舷中央に1本、艦尾に1本、左舷に3本(2本不発)を主張する<ref> [[#BIG E上]]p.281</ref>。赤沢(比叡主計中尉)は、アメリカ軍機による来襲10回、爆弾命中6、魚雷命中4本を記録した<ref>[[#主計大尉]]p.89</ref>。[[戦闘詳報]]では、雷撃機10機の攻撃により魚雷2本が命中、右に15度傾斜、後部の浸水を記録している<ref>[[#豊田撃沈]]p.172、[[#11戦隊詳報(5)]]p.16、36</ref>。西田艦長のメモによれば、魚雷2本命中(右舷前部揚鎖機室、右舷機械室前部)、爆弾1発が飛行甲板に命中である<ref>[[#怒りの海]]p.199</ref>。坂本松三郎(大尉、掌航海長兼信号長)によれば、午後12時40分の総員上甲板集合命令時点で、比叡は右に7度傾斜、推定浸水量4,670 t、予備浮力12,150 tで「諸機械非常装置の作動極めて良好」であったという<ref>[[#怒りの海]]pp.220-221</ref>。
 
==== 沈没 ====
午後1時30分、阿部司令官は比叡処分のため「各艦魚雷2本ヲ準備シオケ」と命令した<ref>[[#豊田撃沈]]p.172、[[#11戦隊詳報(5)]]p.36</ref><ref name="叢書(83)374">[[#叢書83ガ島戦]]p.374</ref>。西田艦長は艦保全に努力していたが、機関室全滅の報告を受けるとついに諦めて総員退艦準備、総員後甲板を下令した<ref>[[#豊田撃沈]]p.173、[[#吉田比叡]]p.256</ref>。坂本(比叡信号長)は、右舷機械室に命中した魚雷は不発だったが、魚雷命中と同時に命中した爆弾の火災により「機械室全滅」の誤報が西田艦長の元に届いたと推測している<ref>[[#怒りの海]]p.222</ref>。最終的に、比叡には魚雷4本以上が命中したと推定される<ref name="叢書(83)374" />。西田艦長は後部砲塔の上から乗組員に対して訓示を行い、最後に総員退艦と注水弁開けを命じる<ref name="叢書(83)374" />。柚木哲(発令所所長)は、司令部と西田艦長の命令により柚木が機関長に注水弁開けを命じ、作業を行った兵からも実行を確認したと証言した<ref>[[#豊田撃沈]]p.179-180</ref>。乗組員がカッターボートで駆逐艦に移乗を始めた時、右舷後甲板から海面まで2mもなかったという<ref>[[#豊田撃沈]]p.175</ref>。西田艦長はこの期に至っても比叡とともに自決するつもりで、総員退艦下命後も生還を望む部下達と1時間半にも渡る押し問答をしていた。それを察知した雪風艦上の阿部司令官は、直筆の命令書を比叡に送り、比叡の現状報告のため「雪風に移乗するように」と命令したが、西田艦長はこれも無視した<ref>[[#豊田撃沈]]p.176、[[#怒りの海]]pp.247-250</ref>。比叡上甲板が波に洗われる状態となったとき、もはや説得は不可能と判断した部下が西田艦長の手足を掴んで担ぎ上げ、強引に[[カッターボート]]に載せて比叡を離れた。雪風移乗後に比叡の機関室が無事だったことが判明したが、もはや手遅れであった<ref>[[#怒りの海]]pp.257-258</ref>。午後4時、阿部司令官は第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)に比叡雷撃処分を命じた<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.40</ref><ref name="叢書(83)374" />。
 
時雨等による魚雷処分直前の午後4時38分、阿部中将に山本司令長官より「比叡の処分待て」の命令がある<ref>[[#海軍驕り]]p.127、[[#11戦隊詳報(5)]]pp.17,40</ref><ref name="叢書(83)374" />。これを受けて第27駆逐隊司令駆逐艦(時雨)に雷撃中止命令が出た。この少し前、トラック島の戦艦大和の連合艦隊司令部では比叡処分を巡って対立があった。宇垣の『戦藻録』によれば、比叡は味方航空機行動圏内にいることから、宇垣は放置して様子を見ることを考えていた<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.233、[[#怒りの海]]p.204</ref>。すると山本長官が宇垣の部屋を訪れ『如何にも明日の撮影に依り宣伝の国米国に利用せらるる事心苦し。サインはしたるも如何かと思ふ』との心中を述べた<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.127、[[#吉田比叡]]p.252</ref>。宇垣は山本長官の提案に同意して比叡の処分を決定しかけたが、黒島先任参謀が「比叡が浮いている限り輸送船団に対する攻撃を吸収する可能性がある」と反論した<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.127、[[#吉田比叡]]p.253</ref>。山本長官は黒島の主張を採用し、比叡の処分命令を撤回したのである<ref>[[#海軍驕り]]p.128、[[#吉田比叡]]p.253</ref>。宇垣は「中将たる司令官の意思を酌み長官の立場に於て其の責を引受くるの心情及敵手に委して機密暴露の惧を来たす事なからしむるの用心ある事なり。先の見えざる主張は理屈に偏して之等機微の点を解し得ざるものあるのみ」と記した<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.128、[[#怒りの海]]p.208</ref>。第十一戦隊参謀として現場(駆逐艦雪風)にいた[[千早正隆]]は「宇垣は現場の事情を少しは理解しているが、黒島は全く理解していない」と評している<ref>[[#海軍驕り]]p.128</ref>。
 
実際に魚雷が発射されたかについては、[[戦闘詳報]]には記載されていない。「西田は雪風の艦内で魚雷発射音を聞いている」との見解は[[吉田俊雄]](元軍令部参謀で、第3次ソロモン海戦には参加していない)の著書『戦艦比叡』により<ref>[[#吉田比叡新装]]pp.293</ref>、「雪風が魚雷2本を発射して比叡を処分」は同じく吉田の著書『造艦テクノロジーの戦い』による<ref>[[#造艦テクノロジーの戦い]]p.72</ref>。だが吉田は後年の著書において「比叡はキングストン弁開放による自沈」と記し、かつての見解を翻している<ref>[[#日本帝国海軍はなぜ敗れたか]]pp.292</ref>。吉田は『戦艦比叡』を記した頃は比叡のキングストン弁開放について確信を持っていなかった{{refnest|[[#吉田比叡新装]]pp.305<ref group="注釈">著者あとがきに「比叡沈没に先立って、ほんとうにキングストン弁を開いたかどうか、多少の疑問が残っている。」とある。</ref>}}。一方、雪風の水雷員兼暗号担当は<ref>[[#よもやま物語]]163頁</ref>や、同じく比叡を護衛していた照月主計長<ref>[[#海軍主計大尉]]103頁</ref>は連合艦隊からの命令により駆逐艦による比叡の雷撃処分は中止されたと証言しており、これらは第十一戦隊戦闘詳報の記録とも合致している。
 
午後5時、駆逐艦5隻(雪風、照月、時雨、白露、夕暮)は、ガ島飛行場砲撃にむかう外南洋部隊支援隊(指揮官[[西村祥治]]第七戦隊司令官:[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、夕雲、風雲、巻雲、朝潮)と同士討ちすることを避けるため、比叡の傍を離れてサボ島西方に退避した<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.49</ref><ref name="叢書(83)375">[[#叢書83ガ島戦]]p.375</ref>。放棄時の比叡は右に15度傾斜し、艦尾も沈下してた<ref name="叢書(83)375" />。午後11時ごろ雪風達が戻ると比叡の姿は既になく、沈没したものと判定された<ref>[[#吉田比叡]]p.270、[[#11戦隊詳報(5)]]pp.18,46</ref>。また、同じく比叡が沈んだかどうかの確認と、沈んでいない場合に雷撃処分を行うべく、ショートランドに向かっていた[[伊号第十六潜水艦|伊16]]も比叡が放棄された海域に到着したが、やはり比叡の姿を見つけることはなかった。比叡戦死者188名、負傷者は152名だった<ref>[[#吉田比叡]]p.260</ref>。比叡に勤務して『最も好きな軍艦の一つ』としている吉田俊雄は<ref>[[#吉田比叡]]p.272</ref>著作で「比叡の最期は、しかし、たいへん後味の悪いものであった」と述べている<ref>[[#吉田比叡]]p.278</ref>。翌日、金剛型4番艦[[霧島 (戦艦)|霧島]]も[[#第三次ソロモン海戦#11月15日第2夜戦|11月15日第2夜戦]]に参加し、同艦より30年も新しい[[ノースカロライナ級戦艦]][[ワシントン (BB-56)|ワシントン]] (''USS Washington, BB-56'')、[[サウスダコタ級戦艦 (1939)|サウスダコタ級戦艦]][[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]] (''USS South Dakota, BB-57'')と交戦、砲撃戦の末に沈没した<ref>[[#連合艦隊戦艦12隻を探偵する]]105-107頁</ref>。[[金剛型戦艦]]は一度の海戦で4隻中2隻を喪失した。
本作戦が実行される前、昭和天皇は[[日露戦争]]の[[旅順港閉塞作戦]]で戦艦2隻([[初瀬 (戦艦)|初瀬]]、[[八島 (戦艦)|八島]])が漫然と行動中、ロシア海軍が仕掛けた[[機雷]]により沈没したことを引き合いに出し「注意を要す」と警告していた<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#吉田比叡]]pp.254-255</ref>。日本海軍は10月16日の戦艦金剛、榛名の飛行場砲撃と同じ手を繰り返し、現存する敵兵力を軽視し、充分な護衛部隊をつけず、結果として2隻(比叡、霧島)を失ったのである<ref>[[#戦藻録(九版)]]pp.234-235</ref>。
 
『比叡』という艦名は公表されなかったが、[[第三次ソロモン海戦]]で戦艦1隻が沈没、1隻が大破(本当は霧島沈没)したことは報道された<ref>「海戦の変貌」p.100</ref>。
:『その凄絶な奮戦ぶりがまるで眼に見えるようで、私どもの感奮を促してやみません。これこそ、正しく敵にわが皮を切らせて、敵の肉を切り、わが肉を切らせて骨を切らんとする真剣勝負であり、決戦であったのです』
と評しているが、
:『敵の戦意を決して侮ることはできません。艦齢外とはいえ、わが戦艦めざして集中攻撃を加へ来り、戦列を離れるや、さらにこれを攻撃し、つひに撃沈せしめるやうな攻撃精神をも発揮しつゝあるのです。(中略)敵もまた敵なりに相当の攻撃精神を発揮しつゝある事実を、私どもはこの際、はっきり銘記すべきでありませう』
とも述べている<ref>「週報第322号」p.5</ref>。
 
これにより、国民の間に建艦運動が起きている<ref>[[#豊田撃沈]]p.181</ref>。比叡乗組員の一部は最新鋭の軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に配属され、太平洋戦争終盤を戦うことになった。西田艦長に対しては言い分を聞く査問会すら開催されず、時の[[海軍大臣]]・[[嶋田繁太郎]]海軍大将により、現役を解き[[予備役]]とする懲罰処分を受けた<ref>[[#連合艦隊戦艦12隻を探偵する]]99頁</ref>。山本長官はこの処分に激怒し、[[宇垣纏]]中将を派遣して抗議したが裁定は覆らなかった。西田艦長はその後も閑職を転々として終戦を迎えた。戦後も決して言い訳をすることなく、取材に応じたのも死の数ヶ月前に1度きりであった。{{main|西田正雄}}
 
[[大分県]][[竹田市]]にある[[広瀬神社 (竹田市)|広瀬神社]]には第二次改装のとき取り外された比叡のマストがある。
 
[[横須賀市]][[衣笠栄町]]の光心寺には比叡にゆかりのある人らが結成した「軍艦比叡会」が建てた「軍艦比叡鎮魂碑」がある。
 
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