「リッチー・ブラックモア」の版間の差分

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[[1960年]]、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、[[ギブソン社|ギブソン]][[ギブソン・ES-335|ES335]]を手に入れる。その後、学校を卒業した彼は[[ロンドン]]の[[ヒースロー空港]]で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、[[ジャズ]]・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、[[スキッフル]]・バンドの'''ザ・ドミネイションズ'''や'''ザ・サフォナイツ'''、'''ザ・デトネイターズ'''、'''マイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズ'''といったローカル・バンドでセッションを行っていた<ref name=mik/>。
 
その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、'''スター・クラブ''' ([[w:en:Star-Club|Star-Club]]) で'''[[スクリーミング・ロード・サッチ]] '''と出会い、セッションを行った。さらに後日、ブラチークモアを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドである'''ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス''' に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり<ref name=mik/>、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったリッチー・ブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した<ref>『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。</ref>。ロード・サッチとのセッションと平行して、'''テルスター''' ([[w:en:Telstar (song)|Telstar]]) のヒットで知られる'''[[トーネイドーズ]]''' ([[w:en:The Tornados|The Tornados]]) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。
 
1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]や上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーの'''ジョー・ミーク''' ([[w:en:Joe Meek|Joe Meek]]) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手'''[[ハインツ・バート]]''' ([[w:en:Heinz (singer)|Heinz]]) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連で'''ジ・アウトローズ'''([[w:en:The Outlaws (UK band)|The Outlaws]]) に加入した。アウトローズはメインとして[[レコード]]を出す傍ら、上記のハインツや'''ジーン・ビンセント''' ([[w:en:Gene Vincent|Gene Vincent]])の[[伴奏]]も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドである'''ハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズ'''にリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。[[ジェフ・ベック]]や[[ジミー・ペイジ]]と短期間セッションを行ったのもこの頃である。
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== ディープ・パープル時代 ==
[[File:Ritchie_Blackmore_1971.jpg|thumb|left|upright|ディープ・パープル時代 (1971年)]]
[[1967年]]、当時'''[[サーチャーズ]]'''で[[ドラムセット|ドラムス]]と[[ボーカル]]を担当していた'''クリス・カーティス''' ([[w:en:Chris Curtis|Chris Curtis]]) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがリッチー・ブラックモアと'''フラワー・ポットメン''' ([[w:en:The Flower Pot Men (band)|The Flower Pot Men]]) のバック演奏を務めていた[[キーボード (楽器)|キーボード]]・プレイヤーの[[ジョン・ロード]]である。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、'''ボビー・クラーク'''(ドラマー)、'''デイヴ・カーティス'''(ベーシスト)を加えて、'''ラウンドアバウト'''というバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルに[[ロッド・エヴァンス]]が加入、さらに、その時に付いて来た[[イアン・ペイス]]がボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「[[ディープ・パープル]]」に改め、アメリカの新興レコード会社、'''テトラグラマトン・レコード''' ([[w:en:Tetragrammaton Records|Tetragrammaton Records]]) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「[[ディープ・パープル]]」を参照)。
[[File:Blackmore.jpg|thumb|right|140px|ディープ・パープル再結成時(1984年)]]
リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。[[1975年]]6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的嗜好の食い違いなどから[[1993年]]に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時は[[ジョー・サトリアーニ]]が代役を務めた(その後は[[スティーヴ・モーズ]]が加入している)。
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== レインボー時代 ==
[[File:Ritchie Blackmore 1977.jpg|thumb|180px|left|レインボー時代のリッチー。Live in Norway, 1977]]
[[1975年]]、ボーカルの[[ロニー・ジェイムス・ディオ]]及び[[エルフ (バンド)|エルフ]]を吸収する形で[[レインボー (バンド)|レインボー]](当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。セカンド・アルバム([[虹を翔る覇者]])でボーカル以外のメンバーを入れ替え(特にドラマーとして[[コージー・パウエル]]を迎え入れ)、最初の黄金時代を迎えるが、その後もメンバー交代が次々に行われた(以降のバンド自体の概要/活動歴は「[[レインボー (バンド)|レインボー]]」を参照)。合意形成型のディープ・パープルと違って、実質ブラチークモアのワンマン・バンドだった。[[1984年]]に活動を休止。
 
1995年にはリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバム『[[孤高のストレンジャー]]』をリリースしているが、以前のメンバーはほとんど含まれなかった(ツアー・メンバーとして元メンバーのドラマーであるチャック・バーギが参加したのみ)。1997年にレインボーは活動を停止。
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== ブラックモアズ・ナイト - 現在 ==
[[File:Blackmore's Night in 2012.jpg|thumb|right|250px|ブラックモアズ・ナイト - N.Y.公演(2012年)]]
1997年、婚約者兼ボーカルの[[キャンディス・ナイト]]と共に[[ブラックモアズ・ナイト]]を結成(その後結婚。ブラチークモアにとっては4度目の結婚となる。[[#結婚歴]]参照)。 イギリス中世の音楽を現代風に[[編曲|アレンジ]]した音楽である。 
 
リリースしたアルバムのいくつかがロシア、ドイツ、チェコでゴールドディスクを獲得している。アメリカ・イギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門ベストヴォーカリスト賞などを獲得している。日本ではファーストアルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数はリリース毎で減少傾向にある<ref>{{Citation |title=Ghost of a Roseの日本語版[[ライナーノーツ]] |publisher=ヤマハミュージック |author=酒井康 |date=2003-06-04 |page=5}}</ref>。現在までライブを含め9枚のアルバムを発表している。
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[[2016年]]2月、ディープ・パープル名義で[[ロックの殿堂]]入りが決定。しかしパープルサイドが共演を拒否した事により、受賞式には出席せず「実際、殿堂入りには全く興味ない」と語っていた事がある<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=1000124480 リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明] - Barks</ref>。
 
2016年6月、レインボー名義で、全3回の公演を実施<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000128164 夢にまで見た、これが新生レインボー] - BARKS</ref>。ブラチークモアは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000128360 リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ] - BARKS</ref>。
 
== 音楽性 ==
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[[作曲家]]としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の多くを中心となって作ったとされている。
 
プロとしてプレイし始めた頃からDeep Purple第一期にかけては、ジムサリバンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ~クリームでのエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィヴラートを自らのプレイに取り入れている(ハンドヴィヴラートはブラチークモア本人がクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている)。こうしてイン・ロック以降のスタイルを確立した。
 
==使用機材==