「ネヴィル・チェンバレン」の版間の差分
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=== 政治経歴 ===
その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾として[[1911年]]に生まれ育った[[バーミンガム]]の市議に立候補し当選し
===国会議員=== [[第一次世界大戦]]終結間際の[[1918年]]に行われた選挙で[[保守党 (イギリス)|保守党]]より立候補し下院議員となり、[[1923年]]から[[1937年]]にかけて保健大臣、[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]などの要職を務めた。 === 首相職 ===
==== 内政 ====
[[1937年]]、[[スタンリー・ボールドウィン]]の後を受けて、
==== 外交 ====
当時イギリスや[[フランス第三共和政|フランス]]と軍事増強と領土の拡大を進める[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[イタリア王国|イタリア]]などとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンがドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]や、イタリアの[[ベニート・ムッソリーニ]]に対して取った[[宥和政策]]は、[[1938年]][[9月29日]]の[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]で頂点に達した。当時イギリスやアメリカなどのその後の連合国から称賛されたこの融和政策により、結果的には
これは、ドイツの関心を[[ソビエト連邦|ソ連]]に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があった。当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする[[共産主義]]陣営や、彼らによる[[共産主義革命]]の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの[[勢力均衡|抑止力]]となることを期待したのである。
一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として現在では非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「[[第二次世界大戦]]勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。
=== 失意の辞任とその後 ===
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