「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていた[[ハンガリー王国|ハンガリー]]での[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]の[[ラーコーツィの独立戦争|反乱]]を終息させ、[[南ネーデルラント]]から[[ミラノ公国]]などに勢力を拡大する。また[[四国同盟戦争]]で[[サヴォイア公国]]との間で[[シチリア王国|シチリア]]と[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]の交換が成立し、その際サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]に[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]]の称号を認めた。さらに[[1716年]]、[[オスマン帝国]]との間に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が起こると[[バルカン半島]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]を派遣してオスマン帝国[[スルターン|スルタン]]・[[アフメト3世]]と戦い勝利、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でオスマン帝国から[[ベオグラード]]を奪い、オーストリア系ハプスブルク家の最大版図を築き上げた。
 
しかし、スペイン領イタリアの奪回を夢見るスペインとの対立は続き、フェリペ5世は[[サルデーニャ]]とシチリアを占領する強硬策に出たため[[四国同盟戦争]]に巻き込まれた。たび重なる戦争で疲憊している同盟側はスペインを圧倒するものの、決定的な勝利を得ることができず、[[パルマ公国]]を譲渡する羽目になった。[[大北方戦争]]では[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ピョートル1世]]の[[バルト海]]進出を抑えるためイギリス王兼[[ハノーフブラウンシュヴイク=リュ王国ネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]および[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]と同盟を結んだ。しかし、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して[[1721年]]にフランス・スペインと同盟を結び、オーストリアは孤立した。カール6世はイギリスに対抗して[[オステンド会社]]を成立して交易の競争に参入し、同じくイギリスと対立しているスペイン(両国は[[ジブラルタル]]をめぐって対立)と[[1725年]]に[[ウィーン条約 (1725年)|ウィーン条約]]を締結してそれまでの対立を解消した。これに対してイギリス、フランス、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]は[[ハノーファー条約 (1725年)|ハノーファー条約]]で同盟し、戦争がおこるように思われたが、翌年にオイゲンの尽力でロシア・[[プロイセン王国|プロイセン]]とも同盟を締結して孤立から脱した。[[1727年]]からスペインとイギリスのジブラルタルをめぐる小規模な戦争が行われ、[[1729年]]に[[セビリア条約]]で終結した。スペインはオーストリアの援軍を期待したが、イギリスの外交官の手回しで中立を堅持した。さらに政略結婚を断られたためスペインは同盟を解消した。[[国事詔書]]の承認を求めるカール6世は孤立を避けるため、イギリスと新たに[[1731年]]に[[ウィーン条約 (1731年)|ウィーン条約]]を締結して同盟を結び直した<ref>[[#成瀬ら編|成瀬ら編]], pp. 21-24.</ref><ref>[[#マッケイ|マッケイ]], pp. 207-236, 276-297.</ref>。
 
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は[[1713年]]、[[国事詔書]]を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は[[1732年]]に承認、イギリスはオステンド会社の解散と引き換えに[[1731年]]に、フランスは[[1733年]]から[[1735年]]の[[ポーランド継承戦争]]で[[ロレーヌ公国]]を手放すことで承認を取り付けた。