「武家政権」の版間の差分

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'''武家政権'''(ぶけせいけん)は、[[日本史]]の[[平安時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて、[[武家の棟梁]]([[軍事貴族]])を長として<ref>[[北条氏|伊豆北条氏]]の[[北条得宗|執権政権]]、[[豊臣政権]]を除く。</ref>、地方社会を実効支配する[[武士]]層を掌握した[[中央政権]]を指す<ref>いわゆる[[軍事政権]]と見なされることもあるが、軍事政権とはそもそも近代以降について呼ばれるもので、封建制にしたがって双務的に統治される性質をもたず、武力による恐怖弾圧によって片務的に統治される性質をもつ点で大きく異なる。</ref>。'''武士政権'''(ぶしせいけん)とも呼ぶ。
 
==概要==
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武家政権とはかならずしも[[幕府]]と同一ではなく、幕府開設以外の方法で武家政権の確立を目指した例もある。それには[[平氏政権]]・[[織豊政権]]が挙げられる。[[平氏政権]]は[[天皇]]の[[外戚]]として政権確立を指向した。[[織豊政権]]は[[戦国大名]]の統治機構を母体とする強力な中央集権体制であり、その裏づけに[[天皇]]・[[朝廷]]の権威を利用するという形式を執った。そもそも幕府が政権を指す名称となったのは、江戸時代中期以降である。つまり成立時点において幕府を自称した武家政権は存在しない。
 
そのうち[[河内源氏|源氏]]、[[足利将軍家|足利]]、[[徳川将軍家|徳川]]の各武家権力は、政権成立時には武力行使により樹立された。この成立過程は[[源頼朝]]が確立したが、いずれも形式上[[朝廷]]から任ぜられる[[征夷大将軍]]の位に付く形で[[幕府]]を開き、[[封建制]]とも呼ばれる分権的な統治を行い、地方領主として地域の実効支配権を持つ[[武士]]の連合政権の形をとった。武家政権の長は自己の軍事力によって政権を獲得して、封建制度的な土地所有と法律による支配を実施した<ref name="yoshida">吉田昌彦「将軍宣下」『歴史学事典 12<small>王と国家</small>』 弘文堂、2005年 ISBN 978-4-335-21043-3</ref>。だが、その政権及びその長としての公認はいまだ中央権力としての地位を保っていた[[天皇]]からの[[将軍宣下]]による、現実的な権力と貴種性の承認によって初めて確立しえた<ref name="yoshida" />。[[室町幕府|室町]]、[[江戸幕府]]は、[[征夷大将軍]]の位を[[将軍家]]の男子に代々世襲させる一種の王朝だった。
 
== 歴史 ==
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=== 平安時代末期 ===
[[平安時代]]末期、[[平清盛]]が[[武家]]としては初めての[[太政大臣]]に任じられた。清盛は[[朝廷]]の内紛に起因する[[保元の乱]]と[[平治の乱]]で、武功を挙げ政権を獲得したが、平氏政権は[[伊勢]](平家)一門で[[朝廷]]の官位を占め、清盛自身は[[天皇]]の[[外戚]]となるなど、従来の[[摂関政治]]と大差は無かった。既存のシステムの中に武家出身者を浸透させる事には成功したものの、[[武家]]による独自の政治体制の構築どう見出るかこと発見でき出来ず旧態依然の政治を行い、その中での平一門の贅沢な暮らしや異様な出世、繁栄などを誇示するだけとどまったのである。そのため、地方の実効支配者としての地位の向上を望む多数の地方武士の利益代表者の位置を十分構築できず、同時多発反乱の中から台頭した[[源義仲]]や[[源頼朝]]らによって滅ぼされた(ただし、清盛が設置した諸制度の中に後の頼朝政権に引き継がれた組織の萌芽が見られるというのが近年の有力説である→[[平氏政権]])。
 
=== 鎌倉時代 ===
本格的な武家政権は、[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開いた事により始まる。頼朝は、当初国衙の主として[[朝廷]][[公家]]に追い使われていた東国武士集団による反乱の旗手として登場する。しかし平家打倒の[[治承・寿永の乱]]を経て、[[寿永]]2年/[[治承]]7年([[1183年]])に[[後白河天皇|後白河院]]から東国における統治権的支配権([[東海道]]・[[東山道]]の実質的支配権)を認める[[寿永二年十月宣旨]]を与えられる。そして[[近衛大将|右近衛大将]]に任じられるがすぐに辞任し鎌倉に戻り翌[[建久]]2年([[1191年]])正月に前右大将として「政所吉書始」を行い家政機関を設置する。これが発展し[[鎌倉]]を本拠とした地方政権を樹立し、東国を中心に[[守護]]と[[地頭]]の設置を朝廷に認めさせる。その武家権力としての独立性を保つ機構を作るために[[近衛大将]]より格下の[[征夷大将軍]]に任ぜられ、その権力機構として[[幕府]]を開いた。この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが[[天皇]]・[[太上天皇|上皇]]と並ぶ武家権力が誕生した。頼朝とその子らの源家は三代で滅びるが、外戚でもあった[[御家人]]の[[北条氏]]は、[[摂家]]から[[藤原頼経]]を迎えて将軍へと就任させ以後「[[宮将軍]]」を続け、自身は[[執権]]として政権を握る。幕府は[[承久の乱]]で鎌倉の武家権力が朝廷権力に勝利して、旧平家領にも守護地頭を起き支配権を全国に広げ、ついには初の全国統一の武家政権となった。そして武家政権は次第に朝廷へ介入し、各地で地頭は[[国衙領]]や[[荘園]]へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。
 
この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが[[天皇]]・[[太上天皇|上皇]]と並ぶ武家権力が誕生した。頼朝とその子らの[[河内源氏]]嫡流(源家)一門は三代で滅びるが、外戚でもあった[[御家人]]の[[北条氏]]は、[[摂家]]から[[藤原頼経]]を迎えて将軍へと就任させ以後「[[宮将軍]]」を続け、自身は[[執権]]として政権を握る。幕府は[[承久の乱]]で鎌倉の武家権力が朝廷権力に勝利して、旧[[平家没官領]]にも守護地頭を起き支配権を全国に広げ、ついには初の全国統一の武家政権となった。そして武家政権は次第に朝廷へ介入し、各地で地頭は[[国衙領]]や[[荘園]]へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。
鎌倉時代後期になると有力御家人との権力闘争を勝ち抜いた北条氏の専制が強化される一方で、[[元寇]]なども原因となり、多くの[[御家人]]が経済的、政治的に没落するようになり、鎌倉幕府に対する不満が高まっていった。これが[[後醍醐天皇]]による倒幕と結びつき、鎌倉幕府は有力な御家人などにも離反され、滅亡に至るのである。
 
鎌倉時代後期になると有力御家人との権力闘争を勝ち抜いた執権北条氏の専制が強化される一方で、[[元寇]]なども原因となり、多くの[[御家人]]が経済的、政治的に没落するようになり、鎌倉幕府に対する不満が高まっていった。これが[[後醍醐天皇]]による倒幕と結びつき、鎌倉幕府は[[足利氏]]や[[新田氏]]等の有力な御家人などにも離反され、滅亡に至るのである。
 
=== 南北朝時代 ===
[[後醍醐天皇]]らが[[鎌倉幕府]]を滅ぼして[[建武の新政]]を開始したことで、武家政権は中断する。しかし新政は武家への恩賞施策と[[武家領]]を減らし国衙領の復活を目指す[[後醍醐天皇]]の独裁と[[公家]]優先の政策で、[[武家]]の支持を得られずに混乱した。[[足利尊氏]]は[[中先代の乱]]の鎮圧を機に後醍醐天皇から反旗を翻すと多くの武家が結集し後醍醐建武政権を攻め、[[後醍醐天皇]]は[[三種の神器]]を持って逃亡した。直後に尊氏は陸奥の[[北畠顕家]]軍に敗北し九州に落ち延びるも、勢力を盛り返し翌年に[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]を掲げて入京。一時後醍醐天皇と和解し[[持明院統]]の[[光明天皇]]を擁立([[北朝 (日本)|北朝]])して[[征夷大将軍]]に任ぜられ、[[室町幕府]]を開いた。そのため[[後醍醐天皇]]は再び武家権力との対立を深め、[[吉野]]に[[南朝 (日本)|南朝]]を開き南北朝二つの勢力に分かれて全国的な争乱の時代となる。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の到来である。三代将軍[[足利義満]]の[[明徳の和約]]によって南北朝は合一するが、事実上南朝の吸収である。南北朝のせいで混乱はしたが、しかし一説に南朝が一時存在したからその後[[天皇]]が継続する力になったという指摘がある。
 
=== 室町時代 ===
[[室町時代]]、三代将軍である[[足利義満]]は、[[朝廷]]からの権力簒奪による[[治天の君]]を目指し策謀を図り、中国の[[明]]から「[[日本国王]]」に冊封される。さらに義満は[[叙任権]]、[[祭祀権]]や[[元号]]の[[改元]]、治罰の[[綸旨]]の封印など権限を奪っていき治天の権限を代行して[[天皇]]・[[朝廷]]の権威は史上最も低下した<ref>『室町の王権』、『天皇家はなぜ続いたのか』今谷明</ref>。その体制化として三男・[[足利義嗣|義嗣]]の[[天皇]][[即位]]を目指したがその前に義満の死亡で挫折する。
 
また守護は、当初は[[国司]]の業務や[[地頭]]の権限への介入を禁じられていたが、[[応仁の乱]]以後の地方定住と権力の拡張の結果次第に領主化して室町後期には地方支配も進み、この頃の守護は[[守護大名]]と呼ばれる。並行して[[室町幕府]]はわずかに近畿地方を本拠とした地方政権化し、[[細川氏]]や[[三好氏]]といった幕臣たちが力を増していった。それにより15世紀中期からの国内統治は幕府・守護体制とよばれる。
 
その後60年にわたり封印されていた治罰の綸旨は[[享徳の乱]]で復活し乱用されることになり[[天皇]]の権威復活の端緒となった。
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[応仁の乱|応仁・文明の乱]]を契機とする[[室町幕府]]や多くの守護は国内統治権を失い、勢力を回復した一部の守護や[[守護代]]・[[国人]]などから新たに台頭した勢力など多様な出自をもつ[[戦国大名]]などの地域権力が一国以上の領域を支配する大名領国を形成した。武家権力は決定的な勢力となるが、その一方で成り上がった[[戦国大名]]は中央権門と接触を持ち、[[朝廷]]から官位官職を受けて、権威や大義名分を得た。また[[大内氏]]の直奏による[[大宰府|大宰大弐]]の獲得に始まる戦国大名の勢力拡大の実利目的の官職任免もされるようになった。例えば、[[毛利氏]]が[[蘭奢待]]の切屑を[[天皇]]から下賜されるだけで狂喜するなど、コンプレックスの中で京風の[[公家]]文化も[[武家]]に浸透し[[天皇]]崇拝が強まった。こうして武家の台頭の中で[[天皇]]の権威は新たな形で復興した。
 
これら[[戦国大名]]家のなかで尾張国の[[織田信長]]は将軍[[足利義昭]]を擁して上洛したが元亀4年(1573年)には将軍義昭を追放して[[室町幕府]]を滅ぼし、信長は「[[天下]]」の継承者として強力な中央集権の基礎([[織田政権]])を築いた。信長の後を継いで天下を継承した[[豊臣秀吉]]は統一政策を完成し、[[公家]]である[[近衛前久]]の猶子として[[関白]]宣下を受け、政権([[豊臣政権]])を成立させた。秀吉は忠実な[[天皇]]の侍大将として信長より前の室町幕府武家政権としての成果と文書体系をも覆し天皇にひれ伏した<ref>「武家と天皇」[[今谷明]]著</ref>。次の[[徳川家康]]は[[吾妻鏡]]を手本足利氏同族の[[清和源氏]]新田氏流を称し、[[征夷大将軍]]の位に就き、[[吾妻鏡]]を手本として[[江戸幕府]]を開いた。
 
=== 江戸時代 ===