「羽黒山政司」の版間の差分

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=== 引退後~晩年 ===
引退後は[[年寄]]専任となったが、現役時代から後進の育成に熱心で[[若羽黒朋明]]を大関に昇進させたほか、立浪襲名中には[[時津山仁一]]・[[羽黒山礎丞|安念山治]]・[[若浪順]]と若羽黒をそれぞれ幕内優勝者に育てた。時津山・安念山・若羽黒に[[北の洋昇]]を加えた4人は「'''立浪四天王'''」と謳われたほどであるほか、[[吉葉山潤之輔]]を始めとした部屋の内外を問わず若手力士に胸を貸し、成長に貢献した点は特筆される。[[日本相撲協会]]の取締・理事も務めた。部屋の師匠としては多くの親方衆を含め、各力士の素質を活かし伸び伸びとその個性を土俵上で発揮させる指導を行い、それが立浪部屋の伝統となった。弟子勧誘については「相撲でいいやつが一人出てどんどん勝つと、やっぱり地方から訪ねてくるもの。『この部屋にはいいのがいるから入門したい』って、地方から手紙が来ますよ。それから(逆に)地方の知っている人にはほうぼう手紙を出しておいて、新弟子を世話してもらったりしてね。そうでなければ、若いもんは増えませんワ」と話していた<ref name="midorishima"/>
 
[[1969年]][[10月14日]]、[[東京都]][[新宿区]]にある[[慶應義塾大学病院]]にて[[尿毒症]]により没した。{{没年齢|1914|11|18|1969|10|14}}。立浪部屋は、羽黒山の長女と結婚した安念山が継いだ。