「新発田藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Pilsen (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Niwaume (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
69行目:
[[慶長]]3年([[1598年]])、[[堀秀治]]とともに越後へ移封、新発田藩六万石の領主となると、[[会津藩]]の旧領主[[蒲生氏]]の遺臣、森、奥村、矢代、熊田らを配下とする。彼らは会津衆と呼ばれた。慶長15年、堀家が除封され、[[堀忠俊]]、[[堀直清]]が配流されると、直清の六男主馬助直正(堀丈大夫の祖)を招き入れる。
 
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1616年]])、[[大坂の役]]が起こり、[[落人]]となった母子を迎え入れ、南部次左衛門の養子とする。同じく落人の土橋弥太郎を迎え入れる。土橋家は後に溝口氏を賜り、溝口伊織家の祖となる。元和4年、[[村上忠勝|村上周防守]]が跡継ぎなく除封となると、その遺臣、下長門守本国を迎え入れる。下家は、越後国奥山庄(その中でも[[関川村]]の辺り)の中世からの[[国人]]領主の家柄で、本国の父の代から[[上杉氏]]の家臣として[[庄内地方|庄内|]]の代官を勤め、そののち[[最上義光]]に仕え、のち村上周防守に仕えていた。
 
[[寛永]]4年([[1627年]])、会津の[[蒲生忠郷]]が除封されると、その遺臣、寺尾、仙石らを迎え入れる。寛永19年、[[堀直次|村上堀家]]が断絶すると、堀主計直浄、河村、大岡らを迎え入れる。主計直浄は堀直清の次男で、主馬助直正の兄に当たる。[[正保]]元年([[1645年]])、会津の[[加藤明成]]が没すると、その遺臣、佐治、君、七里、梅原、赤佐らが加わる。