「ヤヌシュ・コルチャック」の版間の差分

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医学部時代に、執筆活動を開始した。1898年に、ある文芸誌が呼びかけた戯曲コンテストに応募したが、そのとき、ユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキの小説『ヤナシュ・コルチャクと美しい官吏の娘』(1874年刊行。17世紀に裕福な[[メチニク]]の娘に恋をした若き[[シュラフタ]]を描いた物語)の主人公の名前を借用して、ヤナシュ・コルチャク(''Janasz Korczak'' )をペンネームとし、その後''Janusz Korczak'' と改めた。
 
こうしてコルチャクは医者を本業としながらも文筆業でもキャリアを積んでいくが、その収入の多くは貧しく親のない子供たちの医療費や支援金に充てられた。 都市の労働者階層の子供たちのため義捐金で運営され夏の休暇村にも無報酬の児童指導員として何度か同行している
 
1910年に、ユダヤ人の孤児のための孤児院「ドム・シェロト」(ポーランド語で「孤児たちの家」の意)がPomoc dla Sierot「孤児たちのための支援」という団体によって建設され、その翌年にコルチャクはその院長の地位に就いた。そこでは14歳までのユダヤ人の孤児が受け入れられ、壁新聞、子ども集会、仲間裁判など教育実践の面でも注目すべき試みが行われた。
 
[[画像:Krochmalna Street orphanage.PNG|thumb|250px|クロフマルナ通りの孤児院ドム・シェロト、1933年以前]]
 
=== 子どもの権利 ===
[[画像:Korczak orphanage.jpg|thumb|right|300px|現在のドム・シェロト、三階の屋根裏部屋がなくなっている。建物正面にあるのはコルチャックの記念碑。裏にはコルチャックの主だった協力者数人の生没年と事績を書いた金色のプレートが貼られている。建物の入り口は階段を上った二階正面。その右手に細長く高いモニュメントがあるのもコルチャック像。二階入って右手にコルチャック研究所がある。]]
[[画像:POL Warsaw JCP korczak9.jpg|right|thumb|200px|ワルシャワのユダヤ人墓地にあるコルチャックと子どもたちの記念碑]]
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1926年からは地域裁判所で教育問題に関する専門家として顧問を務め、1926年から1930年までは、子供新聞「小評論」の編集長も引き受けた。加えて彼は数多くの本も書いている。その中には、元々児童書には頻繁に彼と子供たちの身の回りの事件が登場していたのだが、教育論としても書かれるようになり、自身の経験と理想を書き記した。最後に、1935・36年にはポーランドのラジオ放送のキャスターにもなり、本名ではなく「老博士」としてマイクから子供たちと共に、子供たちに向けてのおしゃべりを楽しんだ。
 
=== ホロコースト ===
1939年ドイツの[[ポーランド侵攻]]によりヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が始まった。それと共に[[ナチズム|国家社会主義]]の[[反ユダヤ主義]]を背景に、大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、これは[[ホロコースト]]という、過去に例を見ない大規模な民族虐殺に向かうことになる。1940年10月ユダヤ人の孤児院の子供たちはワルシャワゲットーに移住するようにとの命令を受けて、ドム・シェロトの教師と子供たちは、その建物はすぐ目の前の都市部にあるにも係わらず[[ゲットー]]への移動を余儀なくされる。