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これらの功績により信蕃は北条方の[[大道寺政繁]]が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを好しとしない勢力は、北条方の信濃佐久郡[[岩尾城 (信濃国)|岩尾城]]主の[[大井氏]]の下に集まった。
 
[[File:Bansho-in (Saku).JPG|thumb|蕃松院]]
 
『[[依田記]]』『[[三河物語]]』によれば、天正11年([[1583年]])2月21日、岩尾城の[[大井行吉]]を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。2月22日、実弟の信幸とともに敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信蕃は2月23日に死去した。[[享年]]36。後に長男の松平(依田)康国が整備した[[蕃松院]]が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。