削除された内容 追加された内容
タグ: サイズの大幅な増減
15行目:
 
== 狂歌の例 ==
;A.大観的な狂歌史を例証する年順の歌例とその作者
;
;'''  世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に怨みらるれば'''
;'''  牛の子に踏まるな庭の蝸牛角の有るとて身をな頼みそ '''
;'''  昔より阿弥陀ぼとけのちかひにて煮ゆるものをばすくうとぞしる'''
;左、在原元方の擬人化して哀れむ905頃の古今集の誹・俳諧は、概念の狂歌の好例だ。中の首は、概念を古今歌は、狂趣ある寂蓮法師(1202没)の名歌はおそらく娘のために詠んだ。右、『拾遺集』の編者だった藤原輔相の首は1220頃「宇治拾遺物語」より。下司の家に入り粥を無断に食えば井戸から戻った奥さんに見つけられた折の即興で詠んだ弁護。前記、天明狂歌の飯盛の狂歌読書の最初の歌例になる。この掛詞と縁語ならではの並行筋の狂歌の鑑である。おそらく、柿の本の正式な歌仙後の息抜き、或いは負けた詠み者の気晴らしに栗の本に詠まれた面白い首が沢山あったが。そういう「狂歌」(定家日記が初出典の語)は、可哀想に「詠み捨て」の類と思われたから「古典和歌」ほど多くないが、どれだけあったか、それこそ永遠に判らない。下記の四十弱の歌例の多くは、上記の江戸以前の狂歌の三大シリーズに載ったが、全部がRobin D Gill著『古狂歌 ご笑納ください』2017から拾った。
;
;'''  さりとてハ今日また質にやれ蚊帳酒にぞ我は喰らわれにける'''
;'''  蚤虱声振りたてゝ鳴くならば我が懐はむさし野の原'''
;狂歌師の原型の暁月坊(藤原為家の子で定家の孫の冷泉為守1265-1328)の名歌は、彼の前門の庭を頂戴した隣の女院を猥褻にまで罵る首と、家風らしい歌はどうして詠まないかと非難されたら「毛のむくむくと生えよかしさる歌(又、物)よみと人に言われん」と答えた首が名歌なるが、左は名著ながら江戸時代以前の版は未発見なる「酒百歌」の多くの秀歌の一首のみなる。右は、数首しか残らない幻し「蚤百歌」より。桃山と初期江戸時代の本に出た、二首が「むかし野」になった数変種をrdgが勝手に合わせた首になる。
;
;'''  昔よりきとく有馬の湯ときけど腰折れ歌は直らざりけり'''
;策伝の1623年の名作『醒睡笑』に西三条道遥院殿=実隆公(1455~1537)が詠んだ首になるが、湯治の内に歌の点望む人ありしが宜しからぬ歌しかなかった。数年前の『新撰狂歌集』に「はんや坊ありまの湯にて人の歌よむを聞て」こう詠んだ「津の国の有馬の出湯は薬にて腰折歌の数ぞあつまる」。別な本で宗祇、宗長、宗鑑にもなるが、歌詠みを詠む事こそ和歌の裏になる狂歌の得意の分野です。
;''' '''
;'''  夏の夜は時鳥にぞ喰らわるゝ蚊帳へも入らず待つとせし間に '''
;桃山時代の和歌の一人者の細川幽斎作。幽斎を狂歌の一人者と観た貞徳がが、この「夏郭公」の歌を特筆した。幽斎の孫の細川忠興がまだ二十代の少年だった頃に詠んだ従軍記の狂歌を読むも、細川家と狂歌の深い関係を伺える。忠興は当狂歌を下記になるお爺の雄長老に送った。
;
;'''   偽のある世なりけり神無月貧乏神は身をも離れぬ'''
;'''  君が顔千代に一たび洗うらし汚れ/\て苔の蒸すまで '''
;狂歌詠み奇人の典型の雄長老(1547-1602)の諧謔や朗らかな自嘲歌は、初期江戸の大狂歌集によく転載されたが面白くない首はない。左は、時雨がきちんと十月一日に降れば「偽りのなき世になりけり神無月」と始る定家の名歌を本歌にする。右は、伽だった一国の君、すなわち秀吉を指したはずのふざけた寿歌もじり。
;
;'''   山のいも淵せに変わる涙川うき身と成りてなを流すらん'''
;木下長嘯子(1569-1649)の1643年の玉の作品『四生の歌合』の中の108首の一首の詠み主の造名は「なまうなぎぬかりのぼう」。魚の部にある、この動物は芋が鰻になる迷信までも取り入れた恋歌が、井=芋=妹と逢瀬=背(背子)と猶=名をの掛詞の平行に流す二つ筋も万葉の情けない痩せ男虐めの鰻釣の歌を微かに掠る傑作で、四方赤良いの天明狂歌の著名歌「あな鰻いづくの山のいもとせを裂かれてのちに身を焦がすとは 」に負けない。
;
;'''  棹姫の裳裾吹き返しやわらかな景色をそゝと見する春風'''
;'''  おもいとハただ大石の如くにて捨てんとすれど力及ばず '''
;貞徳(1571-1653)は初期江戸の俳諧だけではなく、狂歌の開発・普及の闇将軍だったようです。言葉遊びと物名主義の俳諧で非難される貞徳の狂歌百集などの多くの首は反対に狂歌として渋すぎるが、傑作もある。左の名歌は、宗鑑の俳諧歌の立小便で裾をぬれた女神の汚らしさを、美しいエロス(そそは女陰)に替えたら、猥褻でない狂歌になるし、右では思ひ=火の比喩の大系譜よりも、恋歌の比喩の小系譜の思い=重いの最高の歌例になる。
;''' '''
;'''  昼中の汗の玉子のかえりてや鳥肌となる夕すゞみ船'''
;'''又 飛ひぬ女と夫あはれ主知らし死ぬれは跡をとめぬ人玉'''
;前に触れた未得(1587-1669)の1649年の初大狂歌集「吾吟我集」に出た二首。左は、江戸時代の狂歌の特徴にもなる想像力の傑作だ。右の人のタイプを詠む哀傷歌(?)は、江戸生まれで江戸俳諧の一人者の日本一の俳諧回文師の神技を見せてくれる。大阪にも長く住んだ未得は貴人でない初大狂歌詠みかも知れない。
;
;'''  又と世にある物でない 過去未来げんざへもんが舞のなり振り'''
;'''詣 でする道にて泡をふくの神 これぞまことの弁財てんかん'''
;藩医として江戸住まいの卜養(1607-78)は、未得と並んだ初期江戸の狂歌の名人。左の名歌の短題は「歌舞妓 」で長い前詞は「女かと見れば男成りけり、業平のおもかげは昔男なれば今は見ず当世流行し源左衛門おもしろの海道くだりや何と語ると尽きせじと思えば/\絵にかきて歌よみ侍れとの給ひければ」。右近源左衛門(c1622生)は卜養同様上方の人で1650頃から活躍し、女方の開祖。右の首は厄病と差別された癲癇症を吉化する一方、福の神に参る人々の欲張りを批判するか。狂歌の可能性を未得ほど広く探検・開発しなかったが、個々の言葉遊びは眩しい。 ''' '''
;
;'''  砂糖よりあまみつ神のいますこそ山蜂多くありまなるらめ'''
;'''  山口の両方に生ゆるむら草を見ればさながら釣り髭にこそ'''
;大勢も参加した大狂歌集の三冊(1666, 1669, 1672)の編者の行風(没は1688以前)には名歌こそないが、素朴ながらその詠み方が心地よい。上記は両首が有馬旅び中の天神神社で。天満つは天神つまり文人の守護神の道真が、文人に害を与える者を罰する怖い面がよく知られたから蜂を思わせるが、さすがに人の良い行風は「甘蜜」の如くの面も忘れていない。貞徳に学んだ落首嫌いの為に狂歌に期待されるハードボイルドの詠みが許せないから、現在人に批判されるが坊さんながら、編集した大集には一休顔負け(一休も入るが)中々生意気の釈教歌も多いから、褒めて上げたい。
;
;'''前文要略:狂歌詠の心を聞かれたら「我が歌に作意の自由しまする…」'''
;'''と威張った時、人が狂歌に「ちと卑下ありても良かるべし」と言えば、'''
;'''  狂歌には自慢天満大自在天神ひげをしても良けれど'''
;'''  我が胸は今日はな焼きそ若草の餅もこもれり酒もこもれり'''
;初期と中期江戸を渡る名狂歌師の信海(1634-88)が暁月と雄長老のように教養が抜群ながらやばい事も平気で詠んだ怖い人だった。稚児なくなったら、自分の欲望が満たされた前に死ぬなんて酷いというような狂歌を詠めば他の坊さんに非難されたら、又もそれを弁護した返歌も詠んだ。左は、湯島の天神別当を尋ねた時。右は、いせ物語の名歌もじり。
;
;'''  詠む歌を聞く人毎にひやされて冷や汗かけば爰ぞ納涼'''
;'''  死にますと言ふて夜すがら抱てねて今朝の別れは黄泉路帰りか'''
;'''  金玉の定まりかねて火事以後は宙にぶらつくまらのかりやぞ'''
;江戸の旗本の月洞軒(元禄が活躍期)は中期江戸の最高の狂歌人ながら、Robin D GillのMad In Translation(2009年)まで、その首が1982年に出た『狂歌大観』の40番目の作品になる元禄の間に少しずつ詠まれた狂歌本『大団』の中に寝た。左は、納涼の歌を詠むアドバイスを頼んだ人に答える。中は、肉体的な恋をどの歌人よりよく詠んだ月洞軒の間接的な自慢。右は大火事の跡のルポ歌。やぞは宿の別語。連歌師の老宗長が炬燵に寝て紙子が焼かれたら、小野小町の胸の走り火の名歌を捩った狂歌を気の薬にしたが、かりに評価すれば、月洞軒のあそびもある概念歌は上。 ''' '''
;
;'''  歯抜きならで他の国より象三郎めんよう/\鼻で饅頭'''
;'''  世の中ハかりの世なれどかり難し 夢の世なれどそうも寝られず'''
;'''  あそこゝこに艾の関をすえぬれば病はどこへ出るべきもなし'''
;左は、1729年長崎よりツアーを始めた象の歌が、歯=葉で、鼻=花が渋い。中は、ある人が詠んだ「世の中ハかりの世なれどかりもよし 夢の世なれば又寝るもよし」に応えた上方狂歌の祖師の老貞柳(1734没)。右の「すえ」も渋い掛詞。月洞軒と二人で信海の高弟子だったが、師が性質が近い月洞軒を後継に選んだも月洞軒は弟子無用の一匹オカミでいい。一方、貞柳は、その温和の性質のおかげで千人以上の門をもち庶民まで狂歌を普及し、亡くなったら毎年の空前絶後の数の忌歌が絶えなかった。名歌に名誉号「油煙斎」の故の首と夢の富士が本物に勝る理の二首だけ。 ''' '''
;
;'''  ちょっと見て心うごかす遠眼鏡古今の序にも似た君の顔'''
;'''  有馬の湯すごやかな身は慰みに又行きたいが病なりけり'''
;上記の二首までは、名人ばかりの狂歌の例。しかし名人でない、しかも貞柳が亡くなった後の上方狂歌と天明後の江戸狂歌が通念の如く死んでいない証明。左、東陸の1759年の上方狂歌に出たいい加減の論筋は狂歌として大成功だけではなく、後なる宿屋飯盛の著名歌にperspectiveを与える。貞柳の後は上方狂歌はつまらなかったと一般化するのが不公平。面白い歌は時場を知らず、出れば出るんだ。右の有馬温泉の奇特を弄ぶ1815以前江戸狂歌一首で漯布は、せめて心理学の教科書に言及されるといい。
;
;'''  生酔の行き倒れても辻番のよく世話をする御代ぞめでたき'''
;'''  雁鴨はわれを見捨てて去りにけり豆腐に羽根のなきぞ嬉しき'''
;'''  書物も残らず棒にふるさとの人の紙魚/\憎き面哉'''
;狂歌の大観と言えば、選集か名集に拘らないから、名人の歌も名歌でな(い首も受け入る。左は、同じ天明狂歌の聖の四方赤良の「生酔の礼者を見れば大道を横すぢかひに春は来にけり」ならば、無数の転載あるも巴人集にあった、上記の生酔歌も面白くないか。中の良寛の有難い歌も、右の小林一茶の怒りの歌も、間違いなく同音駄洒落の狂歌と概念狂歌のトップ百になるべきを、いずれも洋書Mad In Translationに出たまでに、狂歌として無視された。一茶に秀でる老猫の恋の狂歌もあるが、歌を見ないで肩書か分野にしか目がない国文学の視座が狭くて、既に特筆された名人と名歌の解説の焼き直しに多忙で、全貌を公平に評価もしかねる。''' '''
;
;'''  かくばかり納る御代は太刀の魚も抜くと云うのはワタ計り也'''
;'''  一夜あけて心の駒いさみつゝふけるタバコのわ乗りをぞする'''
;'''  今朝となれば霞の海を大蟹の いとゆったりとあゆむ日のあし'''
;左、五福亭染の1783-6成立の無名人の上方狂歌の微笑ましい君が代の祝いが、赤良の御代の肯定歌とそう変わらない。中は、遊女と居続く客の煙で大きな馬を吹かす画賛は、名歌集に見逃されがちなる摺物の狂歌。詠む人は山陽堂。1798年。画あるから摺物は、日本よりも英米独の書物に出ます。狂歌の0.1%でしかないを、現在(2017年)の日本で見られる古狂歌の数割も怪物を詠む首になると似通う文字通り有難い現象だ。右は、戯作の名人の桜川慈悲成の作品ながら、摺物狂歌として国文学者の目に入らないが、元禄の名句の鶴の歩みよりも繊細で正しい描写だ。
;
;'''B.下記は、二十世紀後半の「天明狂歌」と幕末の落首しか考慮しない狂歌の例。'''
;
;ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里 豆腐屋へ二里([[頭光]](つむりのひかる))
:花鳥風月を常に楽しめるような場所は、それを楽しむための酒肴を買う店が遠くて不便だという意味で、風流趣味を揶揄している。