「臼杵鑑速」の版間の差分

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義鑑亡き後はその子・[[大友義鎮|義鎮(宗麟)]]に仕え、次兄の鑑続と共に外交面で大いに活躍した。義鎮の[[元服]]の際の[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義晴]]の一字拝領、[[豊前国]]や[[筑前国]]を初めとする[[守護]]職の継承などといった幕府との交渉、また[[安芸国]]の[[毛利氏]]といった近隣諸国、さらに影響下にある[[国人]]達との交渉などは、[[吉岡長増]]と鑑速が行なっている。長増没後は[[薩摩国]]の[[島津氏]]と単独交渉している。また、軍事面においても、[[肥後国]]の菊池氏や毛利氏との合戦にも積極的に従軍して武功を挙げる等活躍した。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]年間より兄の後を受けて[[加判衆]]を務め、兄の職であった豊前方分、筑前方分を受け継いだ。また、戸次鑑連([[立花道雪]])や[[吉弘鑑理]]と共に大友氏の「三老」にまで列せられた。謀反を起こした筑前の[[立花氏]]、[[秋月氏]]、[[肥前国]]の[[龍造寺氏]]などの諸国人の討伐や、北九州に侵攻した毛利軍との戦いには三大将の一人となる。晩年には嫡男の[[臼杵統景|統景]]に役目を譲り引退した
 
[[永禄]]4年(1561年)8月、大友義鎮は再び[[門司城]]の攻略を命じる。こうして[[吉岡長増]]・臼杵鑑速の二家老と[[田原親宏]]・[[志賀親度]]・[[朽網鑑康]]・[[吉弘鎮信]]・戸次鑑連・[[田北鑑生]]ら六国衆は1万5千余の兵を率いて[[豊後国|豊後]]の[[大友館]]を出陣し、再び門司城を包囲した。10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や[[田原親賢]]らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して[[小早川隆景]]勢に射ち込み大損害を与えたという<ref>『陰徳太平記』・『吉田物語』</ref>。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。
 
晩年には嫡男の[[臼杵統景|統景]]に役目を譲り引退した。
 
鑑速の存命中は宗麟の義弟・[[田原親賢]]も勝手な振る舞いはできなかったが、[[天正]]6年([[1578年]])の[[耳川の戦い]]における大友軍の大敗後、立花道雪は筑前から手紙を送り「[[吉岡長増|吉岡宗歓]]、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と嘆いている。また江戸期の豊後の三賢人[[三浦梅園]]は「臼杵鑑速、[[吉岡長増|吉岡宗歓]]がいればこんな戦いはなかったであろうに」と言っている。『高橋記』にも「才徳勇猛の良将」と賞されている。
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なお系図には「あきすみ」と書かれている。また、宗麟が[[大内氏]]滅亡の際に[[毛利元就]]から譲られ、後に[[豊臣秀吉]]に献上された瓢箪茶入(大内瓢箪・大友瓢箪、後の上杉瓢箪)を、一時この鑑速が貰い受け所持していた記録がある。
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:うすき あきすみ}}