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'''植木 庚子郎'''(うえき こうしろう、[[1900年]][[1月28日]] – [[1980年]][[3月11日]])は、[[昭和]]期の[[政治家]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]。[[法務大臣]]・[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]。
 
== 来歴・人物 ==
[[福井県]][[丹生郡]][[天津村 (福井県)|天津村]]清水山(後の[[清水町 (福井県)|清水町]]清水山、現在の[[福井市]]清水山町)に、[[清水伊右衛門]]の長男として生まれる。後に植木信一の養子となる。福井県立福井中学校(現・[[福井県立藤島高等学校]])を首席で卒業後、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1925年]][[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]を卒業、[[大蔵省]]に入省する。[[池田勇人]](元首相)、[[山際正道]](元[[日本銀行]]総裁)と同期だった。
 
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[[1972年]]、[[第1次田中角栄内閣]]で大蔵大臣に就任する。蔵相時代はもっぱら田中首相の意向に沿って大型予算を組み、後の狂乱物価の一因となった。[[1976年]]の総選挙で落選し政界を引退。[[1970年]][[勲一等瑞宝章]]受章。1980年3月11日死去。{{没年齢|1900|1|28|1980|3|11}}。
 
[[日本学協会]]の設立準備委員会の監事。
==大蔵省時代の仕事==
 
== 大蔵省時代の仕事 ==
1943年、成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的として大日本育英会(現・[[日本学生支援機構]])が設立された。当時大蔵官僚で後に首相となる[[大平正芳]]は、大日本育英会の査定を担当していて、大平は国の手による育英事業は本当の英才に限られるべきとの考えから、当初の中学20万人案はいうに及ばす、文部省の3万人案よりも少なく査定した。さすがに厳し過ぎることから大蔵省首脳からも批判され、最終的には主計局長だった植木の説得で大平は譲歩したという<ref>『大平正芳』 43-44頁。</ref>。[[長野県]]松本[[税務署]]長時代には、管内の土地調査員を統括し、[[国家資格]]として確立させるための運動を示唆し、戦争による中断を経て、[[土地家屋調査士]]制度を実現させた<ref>[https://www.chosashi.or.jp/gaiyou/img/gaiyou/hakusyo2014/075-090_chapter09.pdf 日本土地家屋調査士会連合会]</ref>。
 
== 脚注 ==
<references />