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[[File:Liège, Palais Provincial02, statues de Pepin de Landen et Saint Remacle.JPG|thumb|ピピン1世の石像]]
'''ピピン1世'''([[ドイツ語]]:'''<span lang="de">Pippin der Ältere</span>''', [[580年]]頃 - [[640年]])は、[[カロリング朝|カロリング家]]の祖。父は[[ユーグ (アウストラシア宮宰)|ユーグ]](在職:617年 - 623年)。「'''大ピピン'''」とも呼ばれる。[[メロヴィング朝]]フランク王の[[クロタール2世]]、[[ダゴベルト1世]]、[[シギベルト3世]]の治世に[[アウストラシア王国]]の[[宮宰]](在職:[[615年|615]]あるいは[[623年]] - [[629年]]、638/9年 - 639/40年)を務めた。
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ピピンは[[列聖]]されてはいないが、いくつかの古い殉教録では[[聖人]]として挙げられている。
 
ピピンには妻[[イッタ]]との間に一男二女がいた<ref name=S8>佐藤、p. 8</ref>。息子の[[グリモアルド1世]](生年未詳 - [[681年]])は、後に[[アウストラシア]][[宮宰]](在職:[[650年]] - [[661年]])となった<ref name=S8 /><ref>グリモアルド1世は後に息子(キルデベルト)をアウストラシア王シギベルト3世の養子とし、王位につけようとしたが失敗し、661/2年に殺害された(柴田 他、p. 150)。</ref>。二人の娘のうち、[[ベッガ]](生年未詳 - [[649年]])は[[アンゼギゼル]]([[メス (フランス)|メス]]大司教[[アルヌルフ (メス大司教)|アルヌルフ]]の息子)と結婚して[[ピピン2世]](中ピピン、[[カール大帝|カール1世]]の曾祖父)をもうけた<ref name=S8 />。また[[ゲルトルート]]([[625年]] - [[659年]][[3月17日]])は[[イッタ]]が設立した[[ニヴェル女子修道院]]の修道院長となり、後に列聖された。彼女は旅人の守護者とされ、しばしば[[ネズミ]]とともに描かれている<ref>[http://www.newadvent.org/cathen/06533c.htm St. Gertrude of Nivelles](2017年12月3日閲覧)</ref>
 
== 脚注 ==