「李承晩」の版間の差分

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→‎大韓民国建国直後の政治的対立: 「李と議会政治家たちの対立」という枠組み定義から少し間があいての具体例提示なので、その関係を明確にした
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=== 大韓民国建国直後の政治的対立 ===
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。
 
大韓民国建国直後の1948年9月に[[反民族行為処罰法]]が制定され、この法律によって[[1949年]]1月に[[反民族行為特別調査委員会]]が創設され、以後大韓民国では「[[親日反民族行為者]]」が法的に認定されている<ref>{{cite web
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1949年1月5日に朝日新聞を通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢を見せてなかった。そこでは「日本の皆さん新年おめでとう。韓国人は日本人が韓国人へ抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年、韓国人がうけた痛手は日本の軍国主義者の罪であって、日本人もまた政府の同様に被害をうけた。隣人の両国民はお互いに仲良くしなければならないことを日本人は忘れてはならない」としていた<ref>http://ironna.jp/article/2232</ref>。
 
韓国政府内部の最初の対立は[[大統領制]]を採り続けるか[[議院内閣制]]を採用するかを巡って起きた。大統領制の維持を目論む李に対し、李を支えていた[[韓国民主党|韓民党]]の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。この両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の[[高麗大学校]]で湖南財閥の一員)教授をし、[[ソウル大学校]]教授を兼務していた[[兪鎮午]]・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李により覆され、大統領中心制へと転換される<ref>木村幹、前掲書、p.118。</ref>。
 
初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は[[金性洙]]を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は[[李允栄]]を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、承晩は続いて[[李範ソク|李範奭]]を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、[[金度演]]が財務部長官に任ぜられたのみとなった。