「松平定法」の版間の差分

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藩政においては、文久3年([[1863年]])に軍備を洋式軍制に改め、今治海岸に砲台を創設した。[[幕末]]期の動乱の中では、佐幕派と尊王派の間で仲介、周旋などに尽力したが、[[慶応]]2年([[1866年]])の[[長州征討|第二次長州征討]]での幕府軍敗退を契機に、将軍・[[徳川家茂]]にその中止を進言しながら、次第に薩長側に与するようになる。
 
慶応4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府に従って京都に出兵し、御所を警備した。後に[[甲府城]]の警備、江戸・奥州・会津征伐にも出兵した。同年、太政官布告により、本家の伊予松山藩松平家とともに、[[源氏|源姓]][[松平氏]]から本来の[[菅原氏|菅原姓]][[久松氏]]に復姓する。明治2年([[1869年]])6月の[[版籍奉還]]で[[知藩事]]となり、明治4年([[1871年]])7月15日の[[廃藩置県]]で免官となる。その後、東京へ移った。明治5年([[1872年]])8月7日、隠居し、養子の[[久松定弘|定弘]]([[松平正義]]の長男[[大河内正晴]]の長男)に家督を譲った。明治34年(1901年)9月18日に死去した。享年68。
 
{{今治藩主|久松松平氏|10代|1862年 - 1871年}}
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{{DEFAULTSORT:まつたいら さたのり}}
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