「合気道」の版間の差分

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=== 理念・精神性 ===
「精神的な境地が技に現れる」とされており精神性が重視される。これは[[神道]]・[[大本|大本教]]との関係など<ref>'''盛平の精神世界への志向性'''…盛平は戦前[[大本]]の[[出口王仁三郎]]に師事し多大な影響を受けた。また青年時代故郷の和歌山で[[南方熊楠]]に出会い[[神社合祀]]反対運動に取り組んだことや、戦時中[[茨城県]][[岩間町]](後・[[笠間市]])に[[合氣神社]]を創建したことに見られるように、[[神道]]への親しみが深く、合気道の技や理念を語る際も『[[古事記]]』や神道用語を多く用いた。盛平は自らの武道を「[[禊ぎ]]」「[[神楽|神楽舞]]」などと表現している。「合気道は言葉ではなく'''禊'''であります。」(出典:[[#合気神髄|『合気神髄』49頁]])「合気道は気の御業であります。言霊の妙用であります。(中略)わたしはいま『天の浮橋』に立ち、世界人類の大和大愛を希いつつ'''神楽舞い'''昇り、舞いくだろうと思います」(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』294-295頁]])</ref>、[[精神世界]]への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。
このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており([[植芝盛平#エピソード|'''→'''植芝盛平・エピソード]])、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の“達人”として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。