削除された内容 追加された内容
Daymyo89 (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Daymyo89 (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
11行目:
これは将軍に経典を講じ、文学や学問を司る職であった<ref name="国語大辞典">{{harv|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001}}</ref>。林家は3代目の[[林信篤]]以降は[[従五位]]に叙され家禄3500石を受けた。また、[[新井白石]]は1000石の禄を得ている。このような林家・新井の待遇の例はあるものの、一般の御儒者の家禄は200から300石程度であり、[[天保]]以降は[[教授所]]に勤める儒者は15~30人扶持であった。諸藩においても、[[野中兼山]]が10000石、[[熊沢蕃山]]が3000石を執政・番頭の禄として得ていた例をのぞけば、200石以下が一般的であった<ref>=[[国史大辞典]]
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8 </ref>。
 
また、これらの儒者の出身身分は江戸時代初期には浪人、中期以降には商人・医家が多く、武士以下の階層から出て精神的に武士を指導する地位に立つことができた
<ref>=[[国史大辞典]]
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8 </ref>。
また[[中江藤樹]]や[[伊藤仁斎]]のような在野で儒を説く'''町儒者'''が出現し<ref name="ニッポニカ" />、彼らはしばしば窮乏したものの、出仕せずに大名に儒学を講じ社会的地位を得る者もあった
<ref>=[[国史大辞典]]
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8 </ref>。
[[享保]]以降は儒学の研究が経学・史学・[[考証学]]などに分化し、儒者と称するものの一様ではなくなった
<ref>=[[国史大辞典]]
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8 </ref>。
中国・朝鮮のように為政者が率先して儒学の担い手になることがなく、儒者の生活基盤は弱いものであり、中には漢学者として儒教以外のテキストを用いて[[蘭学]]・[[兵学]]などの諸学に転換する者もあった<ref name="ニッポニカ" />。
 
== 概要 ==