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{{Otheruses|アメリカ合衆国のギャング|アメリカ合衆国のラッパー|マシン・ガン・ケリー}}
 
[[File:MachineGunKelly.jpg|thumb|right|250px|マシンガン・ケリー]]
'''ジョージ・R・ケリー'''('''George R. Kelly''')こと'''“マシンガン・ケリー”ジョージ・バーンズ'''('''George "Machine Gun Kelly" Barnes'''、[[1895年]][[7月18日]] - [[1954年]][[7月18日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[ギャング]]。
 
[[狂乱の1920年代]]から[[禁酒法]]時代にかけて、密造酒の製造及び武装強盗そして誘拐など多岐にわたる犯罪を犯し、禁酒法時代を代表する1人として数えられている。
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しかし、そんな苦労も犯罪稼業もオクラホマシティで起こした誘拐事件で終わりが見えてきた。1933年7月20日、ケリーらは[[オクラホマシティ]]に住むチャールズ・F・アーシェル(Charles F. Urschel)と彼の友人ウォルター・R・ジャレット(Walter R. Jarrett)を誘拐、犯行時周囲に気を配り慎重に行動し誘拐に成功したが、その際、犯行現場に指紋などの証拠を残していた。これが後に[[連邦捜査局|FBI]]に送られることになった。犯行から56日後、調査の結果ケリーらはメンフィスにあるJ・C・ティチェノール(J.C. Tichenor)の所有する家に潜んでいることが判明。ケリーらを逮捕する為、[[アラバマ州]][[バーミンガム (アラバマ州)|バーミンガム]]からFBI特別捜査官がメンフィスへ送られた。1933年9月26日早朝、FBIとメンフィス警察がケリーの隠れ屋を急襲、ケリーとその妻キャサリンは逮捕された。
 
この逮捕の際、ケリーは武器を持たずにFBIらの前に出でて「撃つなGメン!撃つなGメン!(!("Don’tDon't shoot, G-Men! Don’tDon't shoot, G-Men!" )」と叫んだと言われている。この[[Gメン]]という言葉はそれまでは単に「政府の役人('Government Men')」を指す言葉であったが、この事件以降はFBI特別捜査官を指す言葉になった(「Gメン」に関しては、同時代に活躍した[[ギャング]]、[[ジョン・デリンジャー]]がFBI捜査官に叫んだ言葉との説もある)。
 
のちに公表された、急襲状況をまとめた報告書によると、ケリーはドアに来てピストルを落とし、「一晩中お前たちを待っていた」と言ったと記されている。
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1954年7月18日、彼の59歳の誕生日にレブンワース連邦刑務所にて心臓発作を起こし死亡した。
 
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[[Category:ギャング]]
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[[Category:1895年生]]
[[Category:1954年没]]
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