「フランソワ・ドルレアン (ジョアンヴィル公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]と妃[[マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリー]]の三男として、ヌイイ城で生まれた。海軍で学び、[[1836年]]に士官となった。[[1840年]]に艦長となり、[[セントヘレナ島]]から[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の遺灰を母国へ持ち帰った。
 
[[1848年]]に[[1848年革命|2月革命]]で王政が廃止されると、一家で[[イギリス]]へ亡命。[[アメリカ南北戦争]]の際にはアメリカ政府に招聘され、息子と甥2人とともに[[ワシントンD.C.]]を訪れていた。
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== 子女 ==
[[1843年]]5月1日、[[リオデジャネイロ]]で[[ブラジル帝国|ブラジル]]皇女フランシスカ(フランス語名[[フランソワーズ・ド・ブラガンス]])と結婚。2子をもうけた。
*[[フランソワーズ・ドルレアン (1844-1925)|フランソワーズ]](1844年 - 1925年)  -  同族の従兄[[ロベール・ドルレアン (シャルトル公)|シャルトル公ロベール]]と結婚。
*[[ピエール・ドルレアン(1845-1919)|ピエール]]{{enlink|Prince Pierre, Duke of Penthièvre|a=on}}(1845年 - 1919年)  -  パンティエーヴル公。{{要出典範囲|生涯独身を通したが、庶子が2人いたとされる。|date=2014年10117日}}
 
== 脚註 ==
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{{Normdaten}}
 
{{History-stub}}