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{{by|1990年}}は1番・[[遊撃手]]の[[野村謙二郎]]に続く2番・二塁手を務め、6月1日の対[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦で[[牽制球]]を受けて帰塁した際に右肩板を損傷し登録を抹消された<ref>『読売新聞』1990年6月3日付朝刊、P.19</ref>が、10日で復帰した。同年から{{by|1992年}}まで毎年.290以上の打率を残し、守備でも{{by|1991年}}まで5年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。1992年は4月に自身初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞したが、右手首を故障して89試合の出場に終わり、現状維持の年俸7,000万円で契約を更改した<ref>『毎日新聞』1992年12月3日付朝刊、P.21</ref>。翌{{by|1993年}}はこの怪我のため右打席に専念した<ref name="base_19990719_19" />。同年は121試合に出場したが打率が.257に下がり、オフにスイッチヒッター再転向のため10月25日に右手首の手術を受けた<ref name="base_19990719_19" />。また、この年から広島の選手会長を務めた。
 
{{by|1994年}}から広島監督に就任した[[三村敏之]]は、正田の回復が不確実なこともあって[[緒方孝市]]を二塁手に[[コンバート (野球)|コンバート]]することを検討した<ref name="base_19990719_19" />。これに対して正田は[[ギプス]]を装着したままトレーニングを行うほどの執念で二塁のポジションを守り、緒方は[[外野手]]となった。同年オフには2,500万円増の年俸9,500万円で契約を更改した<ref>『朝日新聞』1994年12月3日付朝刊、P.21</ref>。{{by|1995年}}12月からは現役引退により退任した[[岡田彰布]]の後任が見つからなかった労働組合[[日本プロ野球選手会]]の会長となり、現役引退まで同職を務めた。大学出身ではない選手が労組選手会会長に就いたのは現在に至る2017年12月の[[炭谷銀仁朗]](高校からプロ入り)就任まで正田のみであった
 
{{by|1996年}}はレギュラー定着後最低の打率.235に終わり、300万円減の年俸1億700万円で契約を更改<ref>『[[朝日新聞]]』1996年11月30日付朝刊、P.21</ref>。球団からのコーチ兼任の要請を断って翌{{by|1997年}}は再起をかけ、[[オープン戦]]では打率.276とまずまずの状態でシーズンを迎えた<ref>『毎日新聞』1997年7月19日付夕刊、P.1</ref>。しかし打撃不振に陥って4月20日にはスタメンを外れ、11年ぶりにシーズン100安打を割り込んだ。