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JapaneseA (会話 | 投稿記録)
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{{出典の明記|date=2009年6月|ソートキー=人1927年没}}
{{Infobox 作家
| name = 芥川 龍之介<br />(あくたがわ りゅうのすけ)
| image = Akutagawa.ryunosuke.jpg
| image_size = 300px
| caption =
| pseudonym =
| birth_name =
| birth_date = [[1892年]][[3月1日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[京橋区]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1892|3|1|1927|7|24}}
| death_place = {{JPN}}・東京府[[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]][[田端 (東京都北区)|田端]]
| resting_place = 日蓮宗慈眼寺
| occupation = [[小説家]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN}}
| education = [[学士]][[文学]]
| alma_mater = [[東京大学|東京帝国大学]][[英文科]]
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| genre = [[短編小説]]
| subject = 近代知識人の苦悩
| movement = [[新現実主義]]
| notable_works = 『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』(1915年)<br />『[[鼻 (芥川龍之介)|鼻]]』(1916年)<br />『[[戯作三昧]]』(1917年)<br />『[[地獄変]]』(1918年)<br />『[[藪の中]]』(1922年)<br />『[[河童 (小説)|河童]]』(1927年)<br />『[[歯車 (小説)|歯車]]』(1927年)
| awards =
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| debut_works =
| spouse = [[芥川文|塚本文]]([[1919年]] - [[1927年]])
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| children = [[芥川比呂志]](長男)<br />[[芥川多加志]](次男)<br />[[芥川也寸志]](三男)
| relations = [[塚本善五郎]](義父)<br />[[芥川貴之志]](孫)<br />[[芥川麻実子]](孫)
| influences =
| influenced =
| signature =
| website =
[http://www.kitabunka.or.jp/tabata/ 田端文士村記念館]<!--
<!--| footnotes = -->
}}
 
'''芥川 龍之介'''(あくたがわ りゅうのすけ、[[1892年]]([[明治]]25年)[[3月1日]] - [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月24日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名同じ、号は{{読み仮名|澄江堂主人|ちょうこうどうしゅじん}}、俳号は我鬼。
 
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なお、龍之介の名前は、彼が[[辰]]年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来するといわれているが、[[人の始期|出生]][[時刻]]については資料がないため不明。[[戸籍]]上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った。
 
[[1898年]](明治31年)、江東(えひがし)[[尋常小学校]]入学(現在の[[墨田区立両国小学校]])。[[東京都立両国高等学校・附属中学校|府立第三中学校]]を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部乙類に入学。[[1910年]](明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。同期入学に[[久米正雄]]、[[松岡讓]]、[[佐野文夫]]、[[菊池寛]]、井川恭(後の[[恒藤恭]])、[[土屋文明]]、[[渋沢秀雄]]らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため[[学生寮|寄宿寮]]に入るが、龍之介は順応することはなかったらしい。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。[[1913年]](大正2年)<!--一高第一部乙類を2番の成績で卒業(一高第一部乙類首席は井川恭)-->、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
 
[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年(大正8年)長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]]
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== 作品の変遷 ==
芥川龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うといわれる。<!--
* {{subst:和暦/sandbox|1918}}に発表した[[キリシタン]]物の小説「[[奉教人の死]]」の末尾の方に「…余が所蔵に関わる、長崎耶蘇出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREAの意なり。…体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交りの平仮名文にして(略)」と架空の記述を挿入してキリシタン研究に血眼になっていた当時の専門家の注意を惹き、碩学の[[内田魯庵]]が真に受けてしまったという逸話がある。-->
<!--
* {{subst:和暦/sandbox|1918}}に発表した[[キリシタン]]物の小説「[[奉教人の死]]」の末尾の方に「…余が所蔵に関わる、長崎耶蘇出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREAの意なり。…体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交りの平仮名文にして(略)」と架空の記述を挿入してキリシタン研究に血眼になっていた当時の専門家の注意を惹き、碩学の[[内田魯庵]]が真に受けてしまったという逸話がある。
-->
 
=== 初期 ===
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自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。「一塊の土」など、これまでと比べ現代を描くようになるが、台頭する[[プロレタリアート|プロレタリア]]文壇に[[ブルジョア]]作家と攻撃されることとなる。この頃から告白的自伝を書き始める(「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」など)。晩年の代表作「河童」は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。
 
「歯車」の内容から、晩年には自分自身の[[ドッペルゲンガー]](Doppelgänger) (Doppelgänger) を見たのではないか、また、[[片頭痛]]あるいはその前兆症状である[[閃輝暗点]]を患っていたのではないか、という説がある。
 
「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」で自殺直前に書いた色紙の一句が辞世の句とされる。
 
== 自殺に関して ==
[[1927年]](昭和2年)[[7月24日]]、雨の降りしきる中、田端の自室で芥川龍之介は[[服毒]][[自殺]]を行い、社会に衝撃を与えた。使用した薬品については、[[バルビタール|ベロナール]]と[[ジェノアル]]とする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の[[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]]によれば、芥川はその時点でもう大量の[[睡眠薬]]でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。既に自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。一方で、自殺の直前には身辺の者に自殺を仄めかす言動を多く残しており、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説がある。また、死後に見つかり、[[久米正雄]]に宛てたとされる[[遺書]]「[[:s:或旧友へ送る手記|或旧友へ送る手記]]<ref>芥川龍之介 「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/20_14619.html 或旧友へ送る手記]」、1927年7月。</ref>」の中では自殺の手段や場所について具体的に書かれ、「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品([[ バルビツール酸系]]ヴェロナール (Veronal) 及びジャール)を手に入れようとした」とあることから、記述を信頼すれば計画的に自殺を企てていた節も窺える。[[エンペドクレス#その他|エンペドクレス]]の伝記にも言及し「みずからを神としたい欲望」についても記している。
 
遺書として、妻・[[芥川文|文]]に宛てた手紙、[[菊池寛]]、[[小穴隆一]]に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名であるが、自殺直前の芥川の厭世的、あるいは「病」的な心境は「[[河童 (小説)|河童]]」を初めとする晩年の作品群に明確に表現されており、「ぼんやりした不安」の一言のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないともえる。芥川命日は小説「河童」から取って河童忌と称される。
 
死の直前である7月初め、菊池寛に会うため2度[[文芸春秋社|文藝春秋社]]を訪れているが会うことができなかった。社員が菊池に芥川が訪れたことを報告せず、生前に菊池が芥川を訪ねることもなかった<ref>久世番子『よちよち文藝部』[[文藝春秋]]、2012年10月、152-153頁</ref>。
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== 菊池寛による弔辞 ==
* [[菊池寛]]は第一高等学校での同級生以来の付き合いであり、友人総代として[[弔辞]]を読んでいる。
 
{{cquote2|
芥川龍之介君よ<br />
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや<br>
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり<br />
友よ 安らかに眠れ!<br />
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく<br />
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし<br />
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん<br />
                                     友人總代 菊池寛}}
* なお、芥川の死について、菊地寛は「芥川の事ども」という文章を残している<ref>菊池寛 「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1340.html 芥川の事ども]」、『文藝春秋』1927年9月号。</ref>。
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* 作家仲間から[[巨根]]として知られていた。親友の[[小穴隆一]]は作家仲間たちが芥川の巨根ぶりを話のタネに笑い合っていたことを書き記している。また、芥川の息子も、[[徴兵]]時の身体検査で軍医からその巨根ぶりを指摘されたことを書き残している。
* [[俳人]]としては[[高浜虚子]]の『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』や[[河東碧梧桐]]の『[[海紅]]』に拠って<ref>芥川龍之介 「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3771_26611.html わが俳諧修業]」</ref>『澄江堂句集』を残している。また詩、[[短歌]]、[[旋頭歌]]などの作品も残している<ref>[[吉野裕之]] 「[http://homepage3.nifty.com/hiro1961/hyoron/akutagawa.html 緑いろの何か-あるいは、芥川を撃った赤い光]」、『歌壇』1996年6月号。</ref>。
 
* [[家紋]]は「[[五七桐]]」である。
 
== 著作 ==
{{div col|colwidth=25em}}<!--
<!--* [[老狂人]] -->
* [[老年 (小説)|老年]] 1914年
* [[バルタザアル]] 1914年(翻訳、原作[[アナトール・フランス]])
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== 家族 ==
; 妻
* [[芥川文]] - 海軍[[少佐]]・[[塚本善五郎]]の娘
; 子供
* [[芥川比呂志]](長男) - [[俳優]]
* [[芥川多加志]](次男) - 最も文学志向が強かったが、[[1945年]](昭和20年)4月13日にビルマ(現:[[ミャンマー]])で戦死<ref>天満ふさこ 『[http://books.google.com/books?id=Z44RAQAAMAAJ 「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春]』 [[新潮社]]、[[2007年]]。ISBN 978-4-10-304971-5。</ref>。
* [[芥川也寸志]](三男) - [[作曲家]]
; 孫
* [[芥川耿子]](比呂志三女) - エッセイスト、詩人、童話作家
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* {{Cite book|和書|author=[[関口安義]]|date=1992|url=http://books.google.com/books?id=s5oqAQAAIAAJ|title=芥川龍之介の手紙|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4-46-922088-9|ref={{sfnref|関口|1992}}}}
* 関口安義編『芥川龍之介新辞典』(翰林書房、2003年)
* {{Cite journal |和書 |author=関口安義 |title=恒藤恭と芥川龍之介 &mdash;蘆花『謀叛論』を介在として&mdash; |date=2010-10-30 |publisher=[[大阪市立大学]] |url=http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBq0030004.pdf |titleformat=恒藤恭と芥川龍之介 &mdash;蘆花『謀叛論』を介在として&mdash;PDF |periodical=大阪市立大学史紀要 |issue=3 |publisher=[[大阪市立大学]] |naid=120005266439 |pages=40-55 |ref={{sfnref|関口|2010}}}}
* {{Cite journal |和書|date=1929年1月13日|author=川端康成 |title=芥川龍之介氏と吉原 |periodical=[[サンデー毎日]] |issue=第8年3号 |publisher=[[毎日新聞出版]] |ref={{sfnref|川端康成 「芥川龍之介氏と吉原」}}}}
 
== 関連項目 ==
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:あくたかわ りゆうのすけ}}
 
[[Category:芥川龍之介|*]]