「羽黒山政司」の版間の差分

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* ただ一度16尺土俵で開催された1945年11月場所で優勝しており、15尺土俵と16尺土俵の2つで幕内最高優勝の経験を持つ唯一の力士ということになる<ref>他に[[千代の山雅信]]が16尺土俵での優勝同点と、15尺土俵での優勝を記録している。</ref>。
* [[1941年]]1月場所と[[1943年]]1月場所の2回、14勝1敗で優勝を逃している。これは平成時代になって[[白鵬翔|白鵬]]が4回を記録するまで最多記録だった<ref>[[栃錦清隆|栃錦]]、[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[貴乃花光司|2代貴乃花]]も2回でタイ記録をつくっている。</ref>。優勝をさらわれた相手はどちらも双葉山だった。
* 「双葉山がいなければ、羽黒山が一時代を築いていた」という見方もあるが、彼の強さは双葉山との[[稽古]]によるものが大きく、この見方の真否は議論が分かれる。本人も双葉山との稽古のおかげで強くなったことを認めている<ref name="meiretsu53"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p53</ref>。また、アキレス腱断裂がなければ双葉山に遜色のない記録を残していたという意見もある。
* 終身に渡り新潟弁が顕著であったことで知られ、これを完全に理解できる人間は相撲界に誰一人といなかったと伝わる。普通の人には4割から5割程度しかわからなかったが、弟子の黒姫山は7割から8割は分かるので、新潟弁の通訳を行っていた。その黒姫山は地方場所に行けば付け人でもないのに必ず呼ばれ、給仕を行っていた<ref name="kechi50"/>。
**[[北の洋昇|北の洋]]は関しては戦時中の角界で苦楽を共にした間柄であるため羽黒山を「ジャングイ」("大将"の意。日本軍の将校になぞらえた呼び方)と呼んでいたが、一方で「ケチ」などという見方をしていた。[[黒姫山秀男|黒姫山]]が「ずっと同じ部屋で近くに接してきているから、『ケチ』などという見方も出てくる」「双葉山さんだって間近で接すれば、"崇高な"なんていう言葉は出てこないかもしれませんよ」というと北の洋は「この野郎!」と怒った。実際、黒姫山が語るところによると、羽黒山が立浪部屋を持っていた頃の当時の立浪部屋では新関取自身が1週間の休みをもらって帰京して地元後援会を作るという<ref name="kechi50"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p50</ref>。