「有島生馬」の版間の差分

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[[1891年]](明治24年)に父親が大蔵省国債局長となり東京の麹町区永田町の官邸に転居し、[[麹町小学校]]に転校したが、[[1893年]](明治26年)に父親が退官した後<ref name="NnK">[[稲垣達郎]]作有島武郎年譜『有島武郎・里見弴 現代日本文学館15』所収 文藝春秋,1968</ref>、[[1895年]](明治28年)に[[学習院初等科]]に転校<ref name=miyakoshi>[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/4168/1/jinbunkagakukiyo_59_181.pdf 初期「白樺」の有島生馬と里見弾]宮越勉、明治大学人文科学研究所紀要第59冊(2006年3月31日)</ref>。中等科に進む[[1896年]](明治29年)に[[麹町区]]下六番町10(現・[[六番町 (千代田区)]])の旧[[旗本]]屋敷に一家で転居し、学校では[[志賀直哉]]、[[田村寛貞]]、[[黒木三次]]、[[三条公輝]]らと文芸サークル「睦友会」を結成して会報誌で文芸評論などを発表<ref name=satsuma/><ref name=koyano>[http://homepage2.nifty.com/akoyano/satomiton.html#1830 里見弴・詳細年譜]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}小谷野敦HP</ref>。[[1900年]](明治33年)中等科4年のときに[[肋膜炎]]を患い、学習院を中退して父の郷里である[[鹿児島県]][[平佐村]](現・[[薩摩川内市]])で転地療養する<ref name=satsuma/>。このとき近所の書店で見つけた『近松研究』を読んだことから[[近松門左衛門]]など日本の古典文学に夢中になり、また、当地で出会った日本人神父から見せられた[[ローマ]]の宗教美術から[[イタリア]]で絵を学びたいと思うようになる<ref name=satsuma/>。
 
一年の療養を終えて、[[1901年]](明治34年)に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])[[イタリア語]]科に入学。[[1903年]](明治36年)には[[小山内薫]]の紹介で、かねてより傾倒していた[[島崎藤村]]を[[小諸]]に訪ねた際、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]の絵を初めて見せられ衝撃を受ける(藤村との交流は生涯続き、のちに藤村の『[[千曲川のスケッチ]]』の装丁も手掛け、藤村が没した際は生馬が葬儀委員長を務めた)<ref name=satsuma/><ref name=koyano/>。[[岩元禎]]に紹介を頼み、大学<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813024/52 『東京外国語学校一覧 従明治37年至明治38年』東京外国語学校、1905年、p.95]</ref>の卒業式<ref>[[1904年]][[7月6日]]([http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949626/3 『官報』第6307号、明治37年7月9日、p.220])</ref>が終了したその足で洋画家[[藤島武二]]のもとを訪ね、住み込みの生徒となるが、しばらくして駒込円通寺に転居し、[[日露戦争]]終戦後の時期である[[1906年]]([[明治]]39年)5月、イタリアに向かう<ref name=satsuma/>。元電話交換手から絵画モデルになり生馬と知り合って有島家の女中となった恋人・関安子の世話を友人らに頼む<ref name=koyano/>。
 
薩摩出身のイタリア公使・[[大山綱介]]の紹介で6月にローマに居を構え、古典美術を学びはじめるが、同年9月に訪ねてきた兄・有島武郎とともにヨーロッパ各地を巡る旅行に出かけ、同年12月末から[[パリ]]に留まるも、ロンドン滞在中の武郎を訪ねて過ごし、翌[[1907年]](明治40年)2月末からパリの美術学校グラン・ショミエールに通いはじめる<ref name=satsuma/>。6月には[[ラファエル・コラン]]の画室を訪ね、夏にはヨーロッパに留学中の旧友らと交流を楽しみ<ref name=satsuma/>、同年秋に[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]回顧展を見て感銘を受ける。パリでは[[荻原碌山|荻原守衛]]、[[高村光太郎]]、[[南薫造]]、[[梅原龍三郎]]らとも交流した<ref name=miyakoshi/>。