「浅草公園六区」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
リンク等整理
11行目:
前後するが、浅草公園六区は[[1887年]](明治20年)の[[根岸興行部]]の「[[常盤座]]」に始まり、演劇場、[[映画館|活動写真常設館]]、[[オペラ]]常設館などが出来て隆盛を誇り、[[江川マストン|江川の玉乗り]]、[[浅草オペラ]]、[[安来節]]等が注目を浴びた。[[1890年]](明治23年)に建設された[[凌雲閣]](浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年(大正12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]で崩壊した。[[1903年]](明治36年)には、[[吉沢商店]]が日本初の映画専門館「[[電気館]]」をオープンした。
 
[[昭和]]に入っても「[[軽演劇|アチャラカ]]」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博し、[[1945年]](昭和20年)の[[第二次世界大戦]]の終戦後も[[軽演劇]]、女剣劇、[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]、およびその幕間に演じられた[[コント]]が注目を浴び芸能の殿堂・一大拠点としてここからスターとなった芸能人も数多かった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E8%8D%89-24992 浅草(あさくさ)とは][[コトバンク]](2017年12月9日閲覧)</ref>
 
[[1951年]](昭和26年)浅草寺本堂再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」(古瓢箪池を含む)が埋め立てられ、跡地に[[1952年]](昭和27年)[[東京楽天地|浅草楽天地]]の映画館「浅草宝塚劇場」と[[1954年]](昭和29年)遊園地「楽天地スポーツランド」<ref>[http://www.rakutenchi.co.jp/outline/pdf/ir/other09.pdf 東京楽天地浅草再開発計画について]東京楽天地(2012年4月13日付)</ref>、[[1959年]](昭和34年)[[東急グループ]]の複合娯楽施設「新世界ビル」<ref>[http://rampo.typepad.jp/harimaze/2007/03/post_78ac.html 浅草「新世界」(東京下町貼雑帳)](2007年3月5日配信) - 1959年から1972年まで存在した。</ref>が建つ<ref>[http://bet-take.com/asakusa-hyoutan-ike-2438.html 今は亡き浅草六区のひょうたん池に思いを馳せる(浅草一覧)]ブログで稼いでタイで本書くライフ。(2011年7月14日配信)</ref>。また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備される<ref>[http://www.asakusaomatsuri.com/商店街概要/ お祭り商店街西参道]浅草西参道商店街振興組合(2017年12月9日閲覧)</ref>
 
1950年代後半に最盛期を迎えた浅草六区も[[高度成長期]]と呼ばれた1960年代に入り、テレビ時代を迎え[[1964年]](昭和39年)の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]以降[[新宿]]、[[渋谷]]、[[六本木]]、[[池袋]]等の方面に若者の文化が芽生え、急激な地盤沈下を迎える。若者世代の嗜好と合わなくなった映画館・劇場は悉く閉鎖され、[[1974年]](昭和49年)新世界の跡地には[[ウインズ浅草]]が造られ、以後平日は通行人がまばらで週末は競馬目当ての客のみが集中する光景が多くなった。夜間は19時になると人通りも疎らになり、不夜城と詠われた嘗ての殷賑振りとは隔世の感がある。
70行目:
**:中映経営。成人映画を上映していたが、晩年は邦画名画座。浅草中劇会館内。[[2012年]][[10月21日]]閉館。
*百万弗劇場
:ストリップ劇場。[[キリン館]](旧アウル館)⇒[[観音劇場]]の跡地(元[[国際劇場]]斜向)。[[渥美清]]が専属コメディアンとして在籍<ref>[http://saijo-noboru.blog.so-net.ne.jp/2012-07-14 浅草百万弗劇場のパンフレット(西条昇ブログ お笑いエンタメ人生!)]2012年7月14日付</ref>。1948年6月開場、1952年10月閉鎖。現在は商店に分割。
*[[浅草花月劇場]]
:[[吉本興業]]直営。戦前は、[[レヴュー (演芸)|レビュー]]の「吉本ショウ」を上演。「[[あきれたぼういず]]」を売り出す。[[高見順]]の代表作『[[如何なる星の下に]]』([[1939年]](昭和14年) - [[1940年]](昭和15年) 連載)の舞台ともなった。戦後「浅草グランド劇場」と改称して洋画封切館に転身。その後、浅草花月劇場に名前を戻し軽演劇や女剣劇を上演。[[1960年代]]以降は東映作品を中心とした邦画名画座に転換。漫才ブーム終了直後に閉鎖([[1985年]][[2月19日]])。当時吉本唯一の東京の事業所であったが吉本側ではすでに浅草は終わった場所として見限っていたため、漫才ブーム後躍進した吉本の東京の拠点には成り得なかった。現在は「浅草パークホールビル」(JRA WINS別館)。なお、吉本興業は[[2006年]](平成18年)11月から[[2015年]](平成27年)7月まで、同地ではなく浅草観音裏の[[言問通り]]沿いにある[[常盤堂雷おこし本舗|雷5656会館]]5階のトキワホールにて「[[よしもと浅草花月]]」と銘打った演芸興行を定期的に行っていた。
148行目:
; 参考資料
* 台東区文化財調査報告書第五集『浅草六区』(台東区教育委員会、1987年3月発行)
* 地図物語「地図と写真でたどるあの日の浅草」(武揚堂、2006年12月発行) ISBN-13:978-4829710449
 
== 関連項目 ==
175行目:
* [http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_Asakusa.htm ぶらり浅草(浅草見て歩く記)]
* [http://s-iijima.sakura.ne.jp/asakusa.htm 今昔の浅草界隈(iijiのページ)]
* [http://rampo.typepad.jp/harimaze/2007/03/post_78ac.html 浅草「新世界」(東京下町貼雑帳)] - 1959年から1972年まで存在した。
 
{{DEFAULTSORT:あさくさこうえんろつく}}
[[Category:東京都の観光地]]