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成賢は朝廷や鎌倉幕府の信任が厚く多くの弟子を育成したが、亡くなった後に弟子の[[道教 (僧)|道教]]が三宝院、同じく弟子の憲深が極楽房(後の報恩院)を継承した。ところが、道教が急死したことから、朝廷では三宝院の再建のために憲深を三宝院門跡に任じた。このため、憲深と亡くなった道教の弟子が対立した。だが、火災によって三宝院は焼失してしまい、三宝院を再建したのは憲深の弟子の定済であった。だが、憲深の他の弟子達もこれに反発したために、三宝院の後継を巡る争いが続いたが、定済の流れを汲む賢俊が足利尊氏の庇護を背景に三宝院のみならず報恩院・理性院・金剛王院も支配下に置いて他派を圧倒した<ref name=hujii/>。
 
賢俊の没後、三宝院の急激な台頭に対する醍醐寺内部を含む内外の反発の動きを受けて[[光済]](22世)が配流されるなどの苦難を受けるが、[[応安]]7年/[[文中]]3年([[1374年]])になって[[足利義満]]が[[光助]](23世)を[[室町幕府]]の祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じたこと<ref>『大日本古文書』醍醐寺文書65号</ref>から幕府の中でも特別な扱いを受けた<ref>大田壮一郎「室町幕府の宗教構想と武家祈祷」(初出:『ヒストリア』188号(2004年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5)</ref>。反面、これが室町幕府による三宝院人事への介入の名目となり、[[定忠]](24世)は足利義満の不興を買って醍醐寺を追放されて三宝院門跡が一時空席となっている<ref name=hujii/>。[[満済]](25世)は「[[黒衣の宰相]]」とも呼ばれ、[[応永]]3年([[1396年]])に足利義満の[[猶子]]となって醍醐寺座主に任じられ、続いて[[准三后]]となり、後には[[足利義教]]の[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]擁立にも活躍するなどした。以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立する。また、古くから醍醐寺は[[真言宗]]系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・[[山伏]]の取締にあたるようになる。また、貴種出身の門跡で諸事情によって先に門跡の継承が決定した者であっても、[[伝法灌頂]]に必要な[[四度加行]](十八道法・金剛界法・胎蔵界法・護摩法)を全て完成させなければ、伝法灌頂を受けて正式な門跡にはなれないという原則が厳守されていたことも三宝院が重んじられた一因になったと考えられている<ref name=hujii/>
 
[[応仁の乱]]で三宝院が焼失し廃寺同然となるが<ref>満済以降、武家との関係が深くなり、三宝院門跡がより将軍の居所に近い法身院を居院として継承するようになったことも一因で、応仁の乱当時の[[義賢]](26世)は[[足利満詮]]の実子であり、[[足利義稙]]の将軍復帰時には[[足利義澄]]に近い門跡[[持厳]]は京都を脱出し、代わりに義稙の猶子であった[[義堯]](九条政基の子)が門跡になっている(藤井雅子「中世における三宝院門跡の確立と存続」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3)。</ref>、[[安土桃山時代]]に醍醐寺金剛輪院の院主であった[[義演]]は[[豊臣秀吉]]の信頼が厚かったため、同院を中心に有名な「[[醍醐の花見]]」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。桜で有名な[[醍醐寺三宝院庭園]]はその時期に整備された。義演は[[徳川家康]]からも信任を受け、[[江戸時代]]初期の[[天台宗]]系修験道である[[本山派]]本山の[[聖護院]]との相論では[[江戸幕府]]の支援を受けて、[[慶長]]18年(1613年)に[[修験道法度]]が制定された。