「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

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8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル]](後のシャルル7世)とブルゴーニュ公ジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、[[9月10日]]の交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した。そこで新ブルゴーニュ公[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、フランス王室も交えた6ヶ月の交渉の末[[1420年]]5月に[[トロワ条約]]が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。
 
そして[[6月2日]]、ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)と結婚した。6月から7月にかけて{{仮リンク|モントロー (ロワレ県)|fr|Montereau (Loiret)|label=モントロー}}<ref group="注">モントロー([[:en:Montereau, Loiret|Montereau]]):(Montereau):現在の[[ロワレ県]]の自治体</ref>の城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月には[[ムラン]]を占領し、ルーアンに滞在した後1421年2月にイングランドへ帰国した<ref>森、P209、エチュヴェリー、P103 - P105、P109 - P113、P115 - P119、佐藤、P130 - P132、P136 - P138、城戸、P123 - P139、ロイル、P142 - P149、君塚、P161 - P163。</ref>。
 
==== 1421年の遠征と急死 ====