「盛田昭夫」の版間の差分
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→人物: ソニーの株ばっかり溜っちゃって、という小鈴谷の中学の同級生のボヤキより加筆 |
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[[1989年]]([[平成]]元年)に政治家の[[石原慎太郎]]と『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本──新日米関係の方策]]』を発表しミリオンセラーとなった。同著では、対米関係の見直しを直言するなど、論客としても知られたが、派手な言動は人により評価が分かれ、共に日米経済人会議の議長に擬された、経団連副会長の佐波正一(東芝)と好対照と視る向きもある。[[建築家]]の[[岡田新一]]とは、次男が岡田の娘と結婚したため、[[姻戚]]関係にあった。
盛田の功績は経済界・産業界のみならず、ユニークな和製英語にも。
以下はその内容。
57歳の1977年10月14日、愛知県名古屋市鶴舞公会堂での母校、愛知一中・旭丘高校創立100周年記念講演会で後輩の高校生に、SONYアメリカ社長時代の30代半ばで白髪となり戸惑っていた所、アメリカの友人から「こちらではローマンティック・グレーと呼ばれていて憧れなんだ」と教えられ、気を良くして一時帰国した折に、友人達にこのエピソードを「ロマンスグレー」と言い換えて伝えた。
後日それを聞いた小説家の飯沢匡が雑誌オール讀物に同名の小説を発表して社会現象になるほど広まった。盛田は友人達に「俺が本家だぞ」と笑っていたという。
== 系譜 ==
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