「龍造寺長信」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 龍造寺長信
| 画像 = Ryūzōji Naganobu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 龍造寺長信像(多久市郷土資料館蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1538年]][[11月19日]])<ref>『旧[[多久邑]]人物小志』</ref>
| 死没 = [[慶長]]18年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1613年]][[12月7日]])<ref>[[細川章]]『佐嘉藩多久領古文書に見る地域の人々』(文献出版、2000年) </ref>
| 改名 = 慶法師(幼名)<ref>[[川副博]]『日本の武将45 龍造寺隆信』([[人物往来社]]、1967年)</ref>→長信
| 別名 =
|戒名 諡号 =
|墓所 神号 =
| 戒名 =
|官位 = [[兵庫寮|兵庫頭]]、[[和泉国|和泉]][[国司|守]](受領名)<ref>『[[北肥戦誌]](九州治乱記)』</ref>
|幕府 霊名 =
| 墓所 =
|主君 = [[龍造寺隆信]]→[[龍造寺政家|政家]]→[[龍造寺高房|高房]]→[[鍋島勝茂]]
| 官位 = [[兵庫寮|兵庫頭]]、[[和泉国#国司|和泉]][[国司|守]](受領名)<ref>『[[北肥戦誌]](九州治乱記)』</ref>
|藩 = [[肥前国|肥前]][[佐賀藩]]士
| 幕府 =
|氏族 = [[龍造寺氏]]
|父母 主君 = 父:[[龍造寺周家隆信]]、母:[[慶誾尼龍造寺政家|政家]][[龍造寺胤和高房|高房]]→[[鍋島勝茂]]娘)?
| = [[肥前国|肥前]][[佐賀藩]]
|兄弟 = [[八戸宗暘]]室、[[龍造寺隆信|隆信]]、[[龍造寺信周|信周]]、<br/>[[犬塚尚重]]継室(後[[横岳頼続]]室)、'''長信'''
| 氏族 = [[小田政光龍造寺氏]]
| 父母 = 父:[[龍造寺周家]]<br/>母:[[龍造寺胤和]]娘・[[慶誾尼]]?
|子 = '''[[多久安順]]'''、[[後藤家忠]]室、[[鍋島茂賢]]室
| 兄弟 = [[八戸宗暘]]室、[[龍造寺隆信|隆信]]、[[龍造寺信周|信周]]、<br/>[[犬塚尚重]]継室(後[[横岳頼続]]室)、'''長信'''
|特記事項 =
| 妻 = [[小田政光]]娘
| = '''[[多久安順]]'''、[[後藤家忠]]室、<br/>真光院([[鍋島茂賢]]
| 特記事項 =
}}
 
'''龍造寺 長信'''(りゅうぞうじ ながのぶ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[龍造寺周家]]の三男で、[[龍造寺隆信鍋島氏]]の末弟家臣
 
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[龍造寺周家]]の三男として誕生。
[[永禄]]元年([[1558年]])、[[龍造寺氏]]が調略により[[小田政光]]を滅ぼした際に、[[小田氏]]の居城であった[[蓮池城 (肥前国)|蓮池城]]を接収したが、後に政光の遺児・[[小田鎮光|鎮光]]を赦免し城主とした。龍造寺氏は永禄2年([[1559年]])に[[少弐冬尚]]を滅ぼし、[[少弐氏]]を滅亡に追い込んだが、冬尚の弟・[[少弐政興|政興]]は再興を目指し反乱を起こす。永禄6年([[1563年]])には龍造寺氏は政興に協調した[[多久宗利]]を下し、[[多久氏]](前多久氏)の居城であった[[梶峰城]]を奪い、長信が城主となった。
 
[[永禄11]]元年([[15681558年]])、長信は梶峰城を鎮光龍造寺氏が調略[[小田政光]]を滅ぼした際に[[小田氏]]の居城であった[[蓮池城 (肥前国)|蓮池城]]自ら接収したが、後に政光遺児・[[小田鎮光|鎮光]]を赦免しとした。小田龍造寺との友好は永禄2年([[1559年]])に[[少弐冬尚]]深めるため鎮光の妹滅ぼし、[[少弐氏]]娶って滅亡に追込んだが、冬尚の弟・[[豊後国少弐政興|政興]]は再興を目指し反乱を起こす。永禄6年([[大友氏1563年]]の圧力が強まると鎮光)に大友龍造寺は政興寝返っ協調しため、梶峰城[[多久宗利]]追放され下し再び長信が城主となった。武雄[[後藤多久氏]](前多久氏)居城であった[[後藤貴明]]が梶峰城]]攻め取ろう奪い、長信が城主なっが、これを退けている
 
永禄11年([[1568年]])、長信は梶峰城を鎮光に譲り、小田氏の居城であった蓮池城を自らの居城とした。小田氏との友好を深めるため鎮光の妹を娶っていたが、[[豊後国]][[大友氏]]の圧力が強まると鎮光は大友氏に寝返ったため、梶峰城を追放され、再び長信が城主となった。[[後藤氏#利仁流後藤氏|肥前(武雄)後藤氏]]の[[後藤貴明]]が梶峰城を攻め取ろうとしたが、これを退けている。
 
[[大江神大神宮]]の再興、[[聖光寺]]や[[岩松軒寺]]の建立など、伝統的な宗教勢力との関係を良好にし、統治の安定を図った。また、近年に梶峰城跡で発掘された遺構は長信が城主の時代のものと推測されている。
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嫡男で初代多久領主の[[多久安順|安順]]は、[[後多久氏]]の祖となる。
 
==参考論文 脚注 ==
<references/>
 
== 脚注出典 ==
*[[鈴木敦子]]「龍造寺氏領国における物資輸送と長信の役割」(『戦国期の流通と地域社会』同成社、2011年、初出は2007年)
*[[中村知裕]]「龍造寺氏の軍事活動と山林資源の調達」(『七隈史学』12号、2010年)
*中村知裕「龍造寺氏の肥前西部侵攻と龍造寺長信」(『古文書研究』83号、2017年)
 
== 脚注 ==
<references/>
 
{{龍造寺氏歴代当主|多久鍋島家||}}