「張本勲」の版間の差分

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Sinoura (会話 | 投稿記録)
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[[松木謙治郎]]打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から[[一塁手]]として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。
 
大川博東映社長の意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら[[開幕戦]]の[[スタメン]]に名を連ねた{{#tag:ref|同年、王貞治も新人で開幕スタメン出場。NPBで18歳の高卒新人の開幕スタメンは以後1965年の[[飯田幸夫]]、1988年の[[立浪和義]]、2006年の[[炭谷銀仁朗]]、2011年の[[後藤駿太|駿太]]、2013年の[[大谷翔平]]しかいない。高卒新人外野手としては駿太まで以後52年間出なかった。|group="注"}}。デビュー戦は阪急戦で、[[米田哲也]]の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で[[秋本祐作]]から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で[[石井茂雄]]から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で二桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得した。
 
2年目には[[打率]]3割をマークし、3年目の{{by|1961年}}には打率.336で21歳にして[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となった。4年目の{{by|1962年}}には[[最優秀選手 (野球)|MVP]]と、同年から新設された[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]を獲得した。{{by|1963年}}には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録する。{{by|1967年}}から{{by|1970年}}にかけては4年連続首位打者を獲得。{{by|1970年}}には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち打率は[[大下弘]]が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、{{by|1986年}}に[[ランディ・バース]]が更新するまで16年間日本記録であった。