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[[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 001.jpg|right|thumb|200px|エプソムの競馬]]
'''テオドール・ジェリコー'''(Théodore Géricault, [[1791年]][[9月26日]] - [[1824年]][[1月26日]])は[[19世紀]]前半に活動した[[フランス]]の画家。同時代に起きた生々しい事件を題材とした『[[メデューズ号の筏]](いかだ)』が代表作である。
== 生涯 ==
[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|right|thumb|200px|突撃する近衛[[猟騎兵]]士官]]
[[ファイル:Gericault Theodore 1814 Verwundeter Kuerassier verlaesst das Schlachtfeld.jpg|right|thumb|200px|戦場から去る負傷した[[胸甲騎兵]]士官]]
ジェリコーの作風は、[[古典主義]]を基本にしたものだが
ジェリコーは1791年、北仏[[ルーアン]]の裕福な家庭に生まれ、1796年頃に家族とともに[[パリ]]に移住した。資産家で弁護士でもあったジェリコーの父親は、息子が画家以外の安定した仕事に就くことを望んだが、ジェリコーは絵画への情熱を捨てきれず、1808年、画家の[[カルル・ヴェルネ]]
ヴェルネのもとを去ったジェリコーは
1812年、21歳のジェリコーは『突撃する近衛[[猟騎兵]]士官』を[[サロン・ド・パリ|サロン]](官展)に出品し金賞を得た。この作品は激しい動きを見せる馬に乗った士官が振り向きざまに号令をかける一瞬を描いたもので、馬が主要なモチーフとなっている。続いて1814年、『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』を出品した。ジェリコーが正式に出品した作品はこの2点と『メデューズ号の筏』の計3点だけである。
当時のフランスは
ジェリコーは1816年から1817年にはイタリアに滞在し、過去の巨匠の作品に学ぶが
フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作『メデューズ号の筏』を出品し、賛否両論を巻き起こした(この作品については後述)。
1820年から1822年には[[イギリス]]に滞在し、1821年には代表作の1つ『エプソムの競馬』を描いている。駆ける馬の一瞬の姿を画面に描きとめたこの作品は、印象派の[[エドガー・ドガ|ドガ]]を先取りするものと評されている。フランスへ帰国後、1822年から1823年にかけて精神障害者をモデルとした人物画連作を描いている。
== メデューズ号の筏 ==
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最初は救命ボートが筏を牽引していたが、漂流初日に悪天候に見舞われ、救命ボート自体の航行も危うくなると、ボートの乗組員が筏をつないでいたロープを切断してしまい、牽引船と保存食を失った筏はあてもなく荒海をさまようこととなった。筏は12日間漂流したあげく、他の船によって発見されたが、149名のうち生存者はわずか15名にすぎなかった。
当時のフランス政府はこの事件を当初ひた隠しにしたが、やがて人々の知るところとなり
ジェリコーはこの事件に大きな衝撃を受け、絵画化を決心した。完成した絵画は12日間漂流した筏がようやく停泊中の戦艦(白い布を振る人物の右腕の下にかすかに描かれている)を遠くに見つけ助けを求めて手を振りつつも、戦艦が遠ざかりつつあることに気づき絶望する場面を選択して描き出したものである。この後戦艦は筏に気づき救援に向かったが、希望と落胆、生と死が隣り合わせの極限状況に置かれた人間のドラマを描こうとしたジェリコーは
この作品は、場面選択とそのあまりの凄惨な表現のためか政治的批判を暗喩していると思われ、当時の[[サロン]]で賛否両論を巻き起こした。しかし
ジェリコー
=== ウジェーヌ・ドラクロワ ===
後輩画家の[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]はこの作品で漂流者の1人(筏の帆の真下でうつぶせになっている男)のモデルを務めており、ドラクロワ自身によるこの部分の模写が残されている。
またジェリコーの早世に大きく嘆き悲しんだドラクロワは、この絵画に込められたジェリコーの創作意欲に大きく自身を奮い立たせ、代表作の一つである「キオス島の虐殺」を完成させた。
== 代表作 ==
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