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→‎経歴: en:Arleigh Burke16:20, 7 December 2017より
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バークは[[コロラド州]][[ボルダー (コロラド州)|ボルダー市]]近郊のスウェーデン系の農民の子として生まれ、[[1919年]][[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に入校。1923年に少尉に任官し、[[戦艦]][[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]、[[重巡洋艦]][[チェスター (重巡洋艦)|チェスター]]、[[駆逐艦]]クレイブン乗り組みや地上部隊、[[海軍省]]兵備局勤務を経験し、この間に[[ミシガン大学]]で[[工学修士]]の学位を得た。[[1939年]]6月に駆逐艦マグフォードの艦長となり、[[1940年]]半ばから[[1942年]]末までは海軍砲熕工場勤務で、[[中佐]]に昇進した。
 
[[太平洋戦争]]開戦で、粘り強い努力によって南太平洋戦域へ転出したバークは、第43駆逐隊(Destroyer Division 43)司令、第44駆逐隊(Destroyer Division 44)司令、第12駆逐戦隊(, Destroyer Squadron 12)司令官となり、戦時昇進で[[大佐]]となった。[[1943年]]10月には、「リトル・ビーバーズ」として知られる第23駆逐戦隊( Destroyer Squadron 23)の司令官となり、同年11月に[[ブーゲンビル島]]上陸作戦の支援にあたった。同戦隊は、それから4ヶ月の間に[[セント・ジョージ岬沖海戦]]など22回の戦闘に参加して、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻などを撃沈破、航空機約30機を撃墜した。

バークはいつも麾下の駆逐艦を最高速度で走らせていた。しかし、セント・ジョージ岬沖海戦前、合流地点へ向かう際は、彼の部隊は駆逐艦[[スペンス (駆逐艦)|スペンス]]でのボイラー事故のため本来なら出せた34ノット以上ではなく31ノットに制限されていた。このことから31ノットバークというあだながついた。<ref name="burke3">{{cite web |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CE6D61539F931A35752C0A960958260&sec=&spon=&pagewanted=all |title=Arleigh A. Burke Dies at 95; Naval Hero of World War II |last=McFadden |first=Robert D. |date=1996-01-02 |publisher=New York Times |accessdate=2009-02-21}}</ref>
<!--バークは麾下の駆逐艦を当時艦隊行動できる限界とされていた30ノットを超える31ノットで走らせ、「31ノットで航行中」と打電したことから、「31ノット・バーク」と呼ばれるようになった。-->

1944年3月に[[アメリカ合衆国太平洋艦隊|太平洋艦隊]]の高速[[空母機動部隊]]、[[第58任務部隊]]司令官[[マーク・ミッチャー]][[中将]]の参謀長となり、戦時昇進で[[代将]]となって、[[1945年]]6月までその職にあった。[[沖縄戦]]でミッチャー司令官が旗艦としていた空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]と[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が相次いで[[特攻機]]の攻撃を受けた際には、参謀長のバークも乗り組んでいた。
 
その後、短期間の海軍省兵備局勤務から、1946年に[[大西洋艦隊 (アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]司令長官となったミッチャー大将の参謀長を務め、また太平洋戦争後は大佐の階級に戻った。