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=== 初土俵〜関脇時代 ===
[[1981年]](昭和56年)1月場所[[初土俵]]。実質無条件(体重別選手権に上位入賞する程度)であった[[幕下付出]]基準を満たす前に中退したため、20歳でありながら[[前相撲]]から始めるという当時としては珍しい角界人生の幕開けだった<ref name="100retsu"/>。それは本人も自覚しており「初土俵から1年で十両」と目標を持つことで力士寿命の面で損をしている点を補っていた<ref name="ref156" />。師匠の稽古は厳しく、夕方の稽古も朝稽古と同じ程度の量を行ったほどである。最大でい30人程度いた部屋の弟子も稽古に耐えかねて次々と廃業したが、青森に帰京した後も稽古を積んでいた杉野森には国はならず、むしろ師匠が「いい加減にしろ」というまで、四股、鉄砲、すり足と延々とやっていた<ref name="meiretsu72"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p72</ref>。本名の杉野森で取った前相撲では格の違いを見せ、3月場所は序ノ口優勝。5月場所から[[四股名]]を「旭富士」と改めた。これは師匠・大島親方の現役時の四股名・旭國と、入門当時に頭角を現した「[[横綱#大横綱|昭和の大横綱]]」第58代[[横綱]]・[[千代の富士貢|千代の富士]]にちなんで名づけられたという<ref name="100retsu"/>。
 
もっともこれは若名乗りの名で、大島親方やタニマチは[[幕内]]に昇進したら大島の現役時代の四股名を継がせ、2代目旭國を名乗らせる予定でいたが、タニマチが宴席で「早く幕内に上げて、親方の名前を継がせなきゃ」と切り出した際、本人が「自分の名前を大きくしたいから」と断り、大島親方は憤慨しつつも結局許され、最後まで旭富士で通したという逸話が伝わっている。旭國は[[1967年]](昭和42年)3月場所で[[幕下]]優勝を果たしているが、その場所に[[三段目]]で優勝した人物が「旭冨士」という、[[静岡県]]出身で[[時津風部屋]]所属の力士だった。
 
前述の目標より1場所遅れたものの、新[[十両]]まで7場所と十二分なスピード出世を果たす。[[1983年]](昭和58年)3月場所新入幕、前頭10枚目で8勝7敗と[[勝ち越し]]。ちなみに[[大乃国康|大乃国]](のち第62代横綱)もこの場所新入幕で、後の横綱2人が同時に[[幕内]]昇進する場所となった。翌5月場所は初の上位挑戦となる前頭4枚目まで上昇、3日目に当時新大関の[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]と初顔合わせの対戦でいきなり殊勲の星を挙げたが、同場所は結局4勝11敗の[[負け越し]]に終わった。関取になっても自分の他に部屋の関取がいなかった時期には[[高砂部屋]]や[[井筒部屋]]に出向くなどして、その柔軟な体を活かした技能を磨いた<ref name="meiretsu72"/>
 
1983年9月場所13日目の大関・[[若嶋津六夫|若嶋津]]戦では前袋を掴まれて寄り切られた挙句、審判がその反則に気付かなかったというハプニングに見舞われている。続く11月場所、[[小結]]昇進。新[[三役]]を射止めた際には入門時と同じように年齢的なハンデを志の高さで補うつもりで「5年で大関」と目標を語った。この時は関取衆から笑われたといい「大学時代の実績が皆無なのに目標だけは高いから、それは笑うはず」と本人も自覚していた<ref name="ref156" />。しかし同場所は3日目大関・[[北天佑勝彦|北天佑]]を破るも6勝9敗。前頭4枚目の翌[[1984年]](昭和59年)1月場所3日目、第61代横綱・[[隆の里俊英|隆の里]]戦で右足首を[[捻挫]]する怪我により途中[[休場]]、同年3月場所は幕尻(前頭14枚目)まで降下してしまう。非力ながら前さばきが良く、懐の深さを生かした柔軟な体つきが持ち味で、新入幕当時から将来の[[大関]]候補と期待されていたが、当初は三役に定着できず伸び悩んだ。しかし、バーベルトレーニングなど体力面の強化が実り、地力が徐々にアップした。