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'''ヤング案'''(ヤングあん、Young Plan)は、[[第一次世界大戦の賠償]]を緩和する新たな賠償方式で、[[1924年]]成立の[[ドーズ案]]による[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]の負担をさらに緩和した。ヤング案の発効は[[世界恐慌]]へつながった。1932年[[ローザンヌ会議]]において、賠償金はさらに今後30億金マルクに減額された。しかし翌年、ナチスによって支払いは一方的に拒否された。その後、アメリカへの戦債は解消しないままであった。[[戦後補償]]を完了するのは[[ドイツ再統一]]後に利子の支払いを再開してからで、アメリカへの債務は[[2010年]][[10月3日]]にようやく終わった。しかし他国への債務はまだ[[2020年]]まで残っている。
 
== 意義 ==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00260, Owen D. Young.jpg|200px|thumb|オーウェン・D・ヤング]]
'''ヤング案'''(ヤングあん、Young Plan)は、[[第一次世界大戦の賠償]]を緩和する新たな賠償方式で、[[1924年]]成立の[[ドーズ案]]による[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]の負担をさらに緩和した。1929年2月11日に[[パリ]]で最初のヤング委員会が行われた。[[ゼネラル・エレクトリック]]会長[[オーウェン・D・ヤング]]を委員長とするこの委員会には[[森賢吾]]と[[JPモルガン#JPモルガン|トーマス・ラモント]]がそれぞれ日米の代表として参加した。詰めの交渉は1929年8月と[[1930年]]1月に[[ハーグ]]で行われた。後者の会議で[[オーストリア]]の賠償責任が免除された。ヤング案は1930年5月17日に発効し、1929年9月1日に遡及して適用された。このように遡及できたのは、ヤング案がその時点で発表されていたからである。発表は[[暗黒の木曜日]]へ直接的な影響を与えた。なぜなら、欧州の戦勝国が復興のために米国から輸入した支払の相当額は、中央同盟国に対する賠償債権を裏づけとしていたからである。[[ヴェルサイユ体制]]が従属させようとしていた[[バルカン半島]]の諸国は世界恐慌の兆しを感じて自律を志向するようになり、放置すれば列強各国の利権が交錯する「ヨーロッパの火薬庫」へ逆行する状況となった。[[日本]]・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[イタリア]]・[[ベルギー]]の五カ国は[[東方問題|東方賠償問題]]が二度のハーグ会議においても進展しないことに我慢がならなかった。小協商国三国([[ルーマニア]]・[[チェコスロバキア]]・[[ユーゴスラビア]])の争う[[#進展|オプタン・オングロア問題]]に対して、五カ国が妥協案を示して不服ならばヤング案だけ成立させて引き上げるぞと迫り、また該当紛争の相手方である[[ハンガリー]]の落ち度も指摘した。こうして1930年1月会議の終了前夜に徹夜の交渉が行われ、東方賠償問題は進展した。最終日の20日には幾つも協定が成立し、たとえば[[オーストリア]]の賠償責任が免除された。
 
== 内容 ==
ドーズ案で一旦賠償総額は白紙とされていたが、ヤング案においては賠償の残額を358億1400万[[ライヒスマルク]]と定めた。ドイツは[[1988年]]までの59年間、年賦の形で支払う。毎年ドイツは、利子とドーズ債の元本支払を含めた平均20億5千万ライヒスマルク相当を外貨によって支払う。1930年は17億ライヒスマルクで、その後21億ライヒスマルクとなり、1966年以降は16.5億ライヒスマルクとなる。実際の支払は遅滞した([[#その後]])。ローザンヌ会議で賠償債務は減額された
 
日本は賠償支払を受ける国の一つであり、[[ベルギー]]を舞台にした[[パリ講和会議#チェシン問題|スパ会議]](1920年7月)の決定により賠償支払のうち0.75%を受け取っていた。ヤング案においても初年度には1250万ライヒスマルクの支払を受ける権利を持っていたが、[[サンフランシスコ平和条約]]第8条C項により対独賠償請求を放棄している。なお、スパ会議で決まった各国の分配率は、[[フランス]]52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、[[ユーゴスラビア]]5%であった。
 
賠償の分配機関として[[国際決済銀行]]を創設しており、[[日本銀行]]は賠償債権国であることを理由に株主と認められた。しかし、このことが後の[[金解禁]]へ向けた見えない圧力となった。出資金は[[日本興業銀行]]をはじめとして、三井・三菱・安田・住友という旧財閥系の銀行をふくむ14行がほぼ均等に国債を引受けることで調達された。
 
ドイツ国内では[[アルフレート・フーゲンベルク]]率いる[[国家人民党]]、[[鉄兜団、前線兵士同盟|鉄兜団]]や全国農村連盟、[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]などは、ヤング案は「ドイツ国民奴隷化法」だと反発して反ヤング案闘争を開始した。しかしドイツは合衆国資本で支配されていた。[[:w:German referendum, 1929|国民投票]]が行われた結果、94.5%の圧倒的多数の賛成によりヤング案は批准された。
 
恐慌でヴェルサイユ体制は動揺。1934年2月にバルカン友好同盟([[トルコ]]・[[ギリシャ]]・ルーマニア・ユーゴスラビア)が組織された。[[ユーゴスラビア王国#アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件|アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件]]が起こり、フランスが[[パウル・ファン・ゼーラント]]を介してアメリカへ接近していった。
 
== 進展 ==
オプタン・オングロア問題(Conflit des optants hongrois)とは、おおよそ次のようなものである。第一次世界大戦後、東欧諸国は土地再分配のため農地改革を行った。ルーマニアでの元地主に対する収用補償額は農地法が地価の1%しか認めなかった。そこでハンガリーが[[トリアノン条約]]を根拠に公正な補償額を払うよう主張した。ルーマニアは内外人平等の原則を理由に、両国混合仲裁裁判所で争った。この紛争は解決されないまま、二度のハーグ会議にも託され、しかし膠着状態にあった。
 
そこで例の五カ国が三項目の妥協案を示した。
{{Quotation|問題解決のため関係各国が二個の基金を設定する。<br />五大国は上基金の資金に充てるためハンガリーに対する賠償債権を放棄する。<br />さらに英仏伊三国は一定額を拠出して上の基金を補助する。|『東方賠償問題関係諸協定の概説』 第1版 昭和6年9月23日 11頁}}
東方賠償問題の進展により1930年1月20日に成立した協定を列挙する。オーストリアの賠償債務を免除するものは既に書いた。ブルガリアとの協定は次節に譲る。チェコスロバキアとの協定も成立した。債権国間の取極およびハンガリー関係諸問題に関する仮協定も署名された。この仮協定は、ハンガリーの賠償問題とオプタン・オングロア問題の解決を大綱として定めたものである。後日パリで専門委員会が大綱を修正・具体化、4月28日確定案文を作成、関係国代表の署名を得た(前掲書12頁)。
 
== 協定 ==
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第八条 ブルガリアは、[[オスマン帝国]]の債務で自国の負担する部分について規則的な償還利払をなすため必要な取極を、本協定から半年以内に締結し、かつその取極による債務を遅滞なく弁済すること。}}
 
== その後外部リンク ==
[[世界恐慌]]の影響で列強が[[重商主義]]に傾く中、ヤング案はドイツを除く当事者各国の協調により堅持された。
 
フランスは特に反対しなかった。代わりに[[パウル・ファン・ゼーラント]]を介してアメリカへ接近していった。
 
ドイツ国内では[[アルフレート・フーゲンベルク]]率いる[[国家人民党]]、[[鉄兜団、前線兵士同盟|鉄兜団]]や全国農村連盟、[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]などは、ヤング案は「ドイツ国民奴隷化法」だと反発して反ヤング案闘争を開始した。しかしドイツは合衆国資本で支配されていた。[[:w:German referendum, 1929|国民投票]]が行われた結果、94.5%の圧倒的多数の賛成によりヤング案は批准された。
 
[[1932年]]、[[スイス]]の[[ローザンヌ]]で行われた[[ローザンヌ会議]]において、賠償金はさらに今後30億金マルクに減額された。しかし翌年、ナチスによって支払いは一方的に拒否された。その後、アメリカへの戦債は解消しないままであった。
 
[[戦後補償]]を完了するのは[[ドイツ再統一]]後に利子の支払いを再開してからで、アメリカへの債務は[[2010年]][[10月3日]]にようやく終わった。しかし他国への債務はまだ[[2020年]]まで残っている。
 
==外部リンク==
* {{アジア歴史資料センター|A08071753800|対独賠償問題の経過と新案の概要}}