「平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
402行目:
 
=== 八木地区 ===
:''ここでは特に顕著な被害が出た安佐南区[[八木 (広島市)|八木地区]]について記載する。''
この地区には貫くように[[八木用水]]が流れる。そばに太田川がありながら常時は土地より低い水位であり取水に困難であったため江戸時代に農業用水路として整備されたもので、阿武山北側にある取水口から途中で中国電力太田川水力発電所の放水を引き入れ、八木・緑井から太田川放水路と旧太田川の分流地点である[[祇園 (広島市)|長束]]まで流れる約16kmの用水路である<ref>{{Cite web|title=八木用水の完成|publisher=国交省太田川工事事務所|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/rekisi/No_186.html|accessdate=2017-10-06}}</ref>。地区の都市化が進むにつれ農業用水から排水路へと重要度が移っていった<ref>{{Cite web|title=中調だより vol.7|url=http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20141209019s.pdf|format=PDF|publisher=農林水産省|date=2015-03|accessdate=2017-10-06}}</ref>。この八木用水から山側に向かって農地や古くからの住居が建ち、その更に山際が新興住宅地として開発が進み谷筋に沿って山嶺直下にまで建ち並んでいた{{Sfn|避難対策等検証部会|2015|p=3}}{{Sfn|避難対策等検証部会|2015|p=10}}。
 
この地区の過去の災害といえば、3つの川が合流する地点であることから河川災害であった<ref name="thepage140904"/>{{Sfn|安佐南区自主防災会|2015|p=12}}。当時の八木学区自主防災会連合会会長は、2000年代中頃に太田川の堤防が決壊する寸前までの降雨を経験しており日頃から水害に対して注意を払っていた、と証言している{{Sfn|安佐南区自主防災会|2015|p=12}}。一方、土砂災害としては1980年に発行された佐東町史に「阿武山南部に位置する八木三丁目周辺は複数の[[扇状地]]で構成される『複合扇状地』で被災地は複数回の土石流で形成された扇状地であった」と明記してある<ref>『佐東町史』 4ページから7ページ</ref>{{Refnest|group=補足|2014年8月25日付の中国新聞社説『天風禄』にも、読者の指摘の形で取り上げられている<ref>{{Cite news|title=天風禄(2014年8月25日分)|newspaper=中国新聞|date=2014-08-25}}</ref>。}}ように、古くからこの地では起こっていた<ref>{{Cite news|title=土石流過去に数回 池田名誉教授が八木3丁目調査で痕跡を発見|newspaper=中国新聞|date=2014-09-14|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=86946&comment_sub_id=0&category_id=564|accessdate=2017-10-06}}</ref>。ただしこれら地誌には頻発した水害(河川災害)の詳細は書かれているが土砂災害の詳細は触れられていない<ref name="yadhiyo2015_06_fukutsuka">{{Cite journal|和書|author1=福塚康三郎|author2=海堀正博|title=2014年8月広島土砂災害における被災状況と土地利用変遷の関係|url=https://www.yachiyo-eng.co.jp/case/papers/pdf/2015_06_fukutsuka.pdf|format=PDF|publisher=砂防学会|date=2015|accessdate=2017-10-17}}</ref>。近年で言えば、例えば1999年土砂災害ではこの地区では被害はなかった<ref name="sph205_H11_6_29_sokuhou" />。
 
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| width = 300
| image1 = 八木地区Cloudburst 1971damage of Hiroshima 5D5A0327.jpg
| caption1 = 災害日。写真中央の県営住宅の左側が八木と緑井の境になる。
| caption1 = 1971年(昭和56年)<ref name="gsipic" />。この時点で山際の土地開発はほぼ現状と同じ。
| image2 = 八木地区 19621971.jpg
| caption2 = 19621971年(昭和4756年)<ref name="gsipic" />。この時点で山際の地開発が進められており、県営緑丘住宅完成、阿武の里団地の造成が終わっているほぼ現状と同じ
| image3 = 八木地区 19471962.jpg
| caption3 = 19471962年(昭和2247年)米軍作成<ref name="gsipic" />八木用水を境に山際の宅地と農地で別開発が進めらており、県営緑丘住宅は完成、阿武の里団地の造成が終わっている。
| image4 = 八木地区旧地名 1947.pngjpg
| caption4 = 19251947年(大正14昭和22年)旧陸地測量部が米軍作成した。八木用水を境に宅形図に記さと農地で別れている当時の地名を示す。黄色は2014年土砂災害の主な発生地点を示す
| image5 = 八木地区旧地名.png
| caption5 = 1925年(大正14年)旧陸地測量部が作成した地形図に記されている当時の地名を示す。黄色は2014年土砂災害の主な発生地点を示す。
}}
:''ここでは特に顕著な被害が出た安佐南区[[八木 (広島市)|八木地区]]について記載する。''
この地区には貫くように[[八木用水]]が流れる。そばに太田川がありながら常時は土地より低い水位であり取水に困難であったため江戸時代に農業用水路として整備されたもので、阿武山北側にある取水口から途中で中国電力太田川水力発電所の放水を引き入れ、八木・緑井から太田川放水路と旧太田川の分流地点である[[祇園 (広島市)|長束]]まで流れる約16kmの用水路である<ref>{{Cite web|title=八木用水の完成|publisher=国交省太田川工事事務所|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/rekisi/No_186.html|accessdate=2017-10-06}}</ref>。地区の都市化が進むにつれ農業用水から排水路へと重要度が移っていった<ref>{{Cite web|title=中調だより vol.7|url=http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20141209019s.pdf|format=PDF|publisher=農林水産省|date=2015-03|accessdate=2017-10-06}}</ref>。この八木用水から山側に向かって農地や古くからの住居が建ち、その更に山際が新興住宅地として開発が進み谷筋に沿って山嶺直下にまで建ち並んでいた{{Sfn|避難対策等検証部会|2015|p=3}}{{Sfn|避難対策等検証部会|2015|p=10}}。
 
この地区の過去の災害といえば、3つの川が合流する地点であることから河川災害であった<ref name="thepage140904"/>{{Sfn|安佐南区自主防災会|2015|p=12}}。当時の八木学区自主防災会連合会会長は、2000年代中頃に太田川の堤防が決壊する寸前までの降雨を経験しており日頃から水害に対して注意を払っていた、と証言している{{Sfn|安佐南区自主防災会|2015|p=12}}。一方、土砂災害としては1980年に発行された佐東町史に「阿武山南部に位置する八木三丁目周辺は複数の[[扇状地]]で構成される『複合扇状地』で被災地は複数回の土石流で形成された扇状地であった」と明記してある<ref>『佐東町史』 4ページから7ページ</ref>{{Refnest|group=補足|2014年8月25日付の中国新聞社説『天風禄』にも、読者の指摘の形で取り上げられている<ref>{{Cite news|title=天風禄(2014年8月25日分)|newspaper=中国新聞|date=2014-08-25}}</ref>。}}ように、古くからこの地では起こっていた<ref>{{Cite news|title=土石流過去に数回 池田名誉教授が八木3丁目調査で痕跡を発見|newspaper=中国新聞|date=2014-09-14|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=86946&comment_sub_id=0&category_id=564|accessdate=2017-10-06}}</ref>。ただしこれら地誌には頻発した水害(河川災害)の詳細は書かれているが土砂災害の詳細は触れられていない<ref name="yadhiyo2015_06_fukutsuka">{{Cite journal|和書|author1=福塚康三郎|author2=海堀正博|title=2014年8月広島土砂災害における被災状況と土地利用変遷の関係|url=https://www.yachiyo-eng.co.jp/case/papers/pdf/2015_06_fukutsuka.pdf|format=PDF|publisher=砂防学会|date=2015|accessdate=2017-10-17}}</ref>。近年で言えば、例えば1999年土砂災害ではこの地区では被害はなかった<ref name="sph205_H11_6_29_sokuhou" />。
 
中国新聞報道によると、
* 旧安佐郡[[佐東町]]時代である昭和40年代前半(1960年代後半)には[[広島都市圏]]の拡大に伴いすでに山際に住宅が集まっていた。つまり無秩序な開発を規制する[[都市計画法]]が成立する前に開発が進んでいた<ref name="chugoku20150122-123865">{{Cite news|title=【広島土砂災害を追う 第3部 開発の末に】<2>山際の家 価格手頃、規制前に拡大|newspaper=中国新聞|date=2015-01-22|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=123865&comment_sub_id=0&category_id=564|accessdate=2017-10-06}}</ref>。広島の都市計画の歴史において郊外で急激に都市化が進んだ地として"YGS"(安古市・[[祇園 (広島市)|祇園]]・佐東=八木・緑井)と括られている<ref>{{Cite news|title=【広島土砂災害を追う 第3部 開発の末に】<5>地域づくり考える転換点 中国地方総合研究センター・宮本茂企画部長に聞く|newspaper=中国新聞|date=2015-01-27|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=125265&comment_sub_id=0&category_id=564|accessdate=2017-10-06}}</ref>。