「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の版間の差分

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<br/>外見は短髪で[[背広|スーツ]]姿=[[銀行員]]風と言うのが[[世間]]一般に評価されたことによるものでもある。(「ジジコメ」というあだ名がついた事すらある。)もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどで[[かつら (装身具)|かつら]]を被って長髪を試したところ[[ファン]]に不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキーが髪を伸ばすようになっている)。しかし、ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、[[ショーン・コネリー]]が演じる[[ジェームズ・ボンド]]をコンセプトに、全員が移動時にお揃いのアタッシュケースを持っていた(デビュー曲が「サンダーボール」のカバーだったことからもその姿勢が伺える)。
 
[[1967年]][[美空ひばり]]の大ヒット「[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]」で[[バッキング]]を担当。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。
[[1967年]][[美空ひばり]]の大ヒット「[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]」で[[バッキング]]を担当。<br/>[[1968年]]には[[エド・サリヴァン・ショー]]に出演のため渡米→[http://jp.youtube.com/watch?v=Ms1yoZDbFEc&feature=related]。このときに演奏したのはイントロに琴の音を[[フィーチャリング|フィーチャー]]した、いささか奇妙な「ブルー・シャトウ」で何ともいい難いサウンドに観客の反応は冷ややかだった。すっかり欧米の[[ポピュラーミュージック]]の奧深さに圧倒された[[井上忠夫]]は帰国後すぐにグループの解散を打ち出す姿勢であったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売された[[ムード歌謡]]的な傾向が強いシングル「[[さよならのあとで]]」が快心の大ヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、[[1971年]]の「[[雨の賛美歌]]」から原点回帰を見せ、かつての「ブルーサウンド」を進化させた独自のサウンドを展開して良曲を次々と発表、またこの年に発売したカバーアルバム「[[G.S.R.]]」では当時台頭していた[[バート・バカラック]]風のアレンジや、日本における初期の[[プログレッシブ・ロック]]とも言えるような[[AOR]]路線に挑戦するなど精力的な活動を見せる。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり[[1969年]]以降は[[レコード]]の売り上げと人気は急降下、他のGSバンドの解散が続く中でも精力的に活動するが、一度落ちた評価が戻ることはなく[[1972年]][[10月]]にコロムビアと契約を打ち切り、井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]から再デビューした(GSとしてのブルー・コメッツの終焉でもあり、GSブームを支えた名立たるグループは既に早期解散していたことから「最後のGS解散」=遅すぎた解散とマスコミに[[揶揄]]された。)。[[1977年]]にもメンバーチェンジし、[[1984年]]には小田も脱退する。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。その一方でGS時代のメンバーでも[[懐メロ]]番組に出演することが度々あったが、井上が[[2000年]][[5月]]に死去したのを期に、[[2002年]]にGS時代のメンバーでも本格的に再結成した。全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。
 
== ディスコグラフィー ==