「賤ヶ岳の戦い」の版間の差分

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== 清洲会議 ==
{{main|清洲会議}}
天正10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])、織田信長とその嫡男で当主の[[織田信忠]]が重臣[[明智光秀]]の謀反によって横死する[[本能寺の変]]が起こり、その後まもない[[山崎の戦い]]で光秀を討った羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つにいたった。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[7月16日]])、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が[[清洲城]]で開かれ、信長の三男・[[織田信孝]]を推す柴田勝家と嫡男信忠の子である三法師(のちの[[織田秀信]])を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じた。結果的には同席した[[丹羽長秀]]・[[池田恒興]]らが三法師擁立に賛成したため勝家も譲らざるをえず、この後継者問題は形の上ではひとまず決着をみた。{{独自研究範囲|なお異説として、勝家自身は三法師擁立に反対ではなく、清洲会議はこの四武将が結託して織田家から天下を奪った[[クーデター]]だったとする説もある
この説によると、秀吉が天下を狙う意図を明確にしたのは、清須会議の翌月に自らが挙行した故信長の大規模な葬儀の時であるという。勝家は秀吉が一連の行動で自らの政権樹立を正当化させようとしている事に気づき、秀吉に強い警戒と敵意を抱いた。信孝は周囲で何が起きているのか理解出来ず、秀吉と勝家の間を仲裁しようとしていた。|date=2015年3月}}
 
== 合戦にいたるまで ==