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[[1992年]][[4月28日]]に、連邦に留まっていた2つの共和国、[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]によって[[人民民主主義]]、社会主義を放棄した「[[ユーゴスラビア連邦共和国]]」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。
 
クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停や[[北大西洋条約機構|NATO]]の介入によって、[[1995年]]の[[デイトン合意]]によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。[[1998年]]には、過激派の[[コソボ解放軍]](KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間に[[コソボ紛争]]が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、[[1999年]]に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには[[国際連合コソボ暫定行政ミッション]](UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷|旧ユーゴスラビア国際戦犯刑事法廷(ICTY)]]に引き渡されたが無罪判決と成っが下される前に死亡した。
 
一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は[[通貨]]、[[関税]]、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、[[2003年]][[2月5日]]にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「'''[[セルビア・モンテネグロ]]'''」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。
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