「ひめゆりの塔事件」の版間の差分

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[[沖縄返還|沖縄復帰]]後に開催された[[沖縄国際海洋博覧会]]に際して、皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にある[[ひめゆりの塔]]を訪れることが伝えられた。これは[[皇族]]による[[第二次世界大戦]]後初めての沖縄訪問だった。[[戦後]]まもなく全国各地を回った「戦後巡幸」の際、[[昭和天皇]]は「[[戦争]]を防止出来ず、[[国民]]をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く[[日本]]を再興したい。そうすることが[[日本国憲法|新憲法]]の精神に従った国民と皇室との関係を確立できるのではあるまいか」と、その志を側近に述べている。
 
「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げていた沖縄解放同盟準備会は、1975年初頭には「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「[[十五年戦争]]における[[大日本帝国]]による[[侵略]]・[[植民地主義]]弾劾」「[[沖縄戦]]における[[日本軍]]による住民虐殺弾劾」及び「(その最高責任者である)[[戦争犯罪]]人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として、1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定した。沖解同(準)は「前段闘争」として、[[6月18日]]に[[沖縄戦跡国定公園#平和祈念公園|摩文仁の丘]]の[[日本軍]][[慰霊塔]]に「日本軍の残虐行為を許さないぞ」、「皇太子沖縄上陸決死阻止」、「大和人は沖縄から出て行け」、「皇太子帰れ」などと[[ペンキ]]で[[落書き]]をした。
 
沖解同(準)は、最終的に7月10日に「『ひめゆりの壕』に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と[[爆竹]]を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの[[知念功]]と西田戦旗派のメンバーの2人が、「ひめゆりの壕」に11日に潜入した。知念は、沖縄史ととりわけ沖縄戦の記録を読み漁ったあとに、壕に潜入したという。知念は後に、「この『闘争』は、皇太子および同妃の[[暗殺]]や[[殺人罪 (日本)|殺傷]]が目的ではなく、皇太子及び皇族を『裁判闘争』に引き摺り出して『[[天皇制]]の[[戦争責任]]』を追及することが最終目的だった」と主張している。
 
[[屋良朝苗]][[都道府県知事|沖縄県知事]]の意向を受けた沖縄県労働組合協議会(県労協)は、幹部三役のみの会議によって「海洋博反対」、「皇太子訪沖反対」については取り組まないことを決定するが、[[在日米軍]]基地労働者で構成する[[全沖縄軍労働組合|全軍労]](のちの[[全駐留軍労働組合|全駐労]])や[[全日本自治団体労働組合|自治労]]沖縄などの[[労働組合]]によって、海洋博会場付近および[[那覇市]]内、[[糸満市]]など沖縄南部などでの沖縄各地での[[デモ活動|デモ]]や、様々な業種での時限[[ストライキ]]や抗議職場集会が実行され、延べ数万人が「皇太子訪沖反対」の意思表示を行なった。
 
=== 警備 ===
7月17日の皇太子到着当時、[[沖縄県警察]]本部は他県からの約1,000人の応援部隊を含めて3,700人の[[日本の警察官|警察官]]による[[警備]]態勢を敷いていた。[[警察庁警備局警備課]]は当初、本土から[[機動隊]]員5000人を派遣する方針を打ち出していたが、沖縄県民や[[マスコミュニケーション|マスコミ]]からの「過剰警備」批判を恐れた[[ハト派]]の[[三木武夫内閣]]は、屋良県知事らの「[[日本の警察|警察]]は火炎瓶が飛ぶなどと言っておりますが、そんなことは絶対にありません」といった楽観論もあり、警備人員を大幅に削減した<ref>[[佐々淳行]] 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、92頁</ref>。沖縄県警察は、皇太子および同妃の訪問に先立ち[[左翼]]活動家に対する視察をしていたが、左翼活動家の沖縄到着を見過ごしていた他、車載無線機を盗まれるなどの失態もあった<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、66頁</ref>。
 
[[警察庁]]から警備責任者として派遣されていた[[佐々淳行]]警備局警備課長は、皇太子および同妃の訪問に先立ち地下壕内の安全確認を主張したものの、沖縄県知事、沖縄県警察の担当者らに「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」と反対されたために実施できなかった<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、60頁</ref>、と自著に記している。