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[[ファイル:Kazimieras.jpg|thumb|右手が2本描かれているカジミェシュの肖像画]]
[[ファイル:Święty Kazimierz.jpeg|thumb|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
'''カジミェシュ・ヤギェロンチク'''({{lang-pl|:Kazimierz Jagiellończyk}}; {{lang-lt|Kazimieras}}, [[1458年]][[10月3日]] - [[1484年]][[3月4日]])は、[[ポーランド王国|ポーランド]]および[[リトアニア大公国|リトアニア]]の統治者であった[[ヤギェウォ朝|ヤギェヴォ家]]出身の人物でキリスト教の[[聖人]]。1552年に[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]により[[列聖]]された。[[リトアニア]]およびリトアニアの[[若者]]たちの[[守護聖人]]。リトアニア語読み名では'''カジミエラス'''。
 
== 生涯 ==
[[ポーランド王]]・[[リトアニア大公]][[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]と王妃[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]の次男として生まれた。母方の祖父は[[ローマ王]]・[[ハンガリー王]]・[[ボヘミア王]]だった[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]である。9歳になると、彼は[[ルヴフ]][[司教]][[ヤン・ドゥゴシュ]]とイタリア人の国王秘書官[[フィリッポ・ブオナコルッシ]]に教育を受けた。13歳の時、カジミェシュは[[マーチャーシュ1世]]に不満を持つハンガリー貴族の一派からハンガリー王位に就くよう請願を受けている。[[オスマン帝国|トルコ]]の侵略からキリスト教世界を防衛することを熱望していたカジミェシュは、ハンガリー王冠を受けることを承諾した。カジミェシュの伯父でかつてポーランド王とハンガリー王を兼ねた[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]は、1444年の[[ヴァルナの戦い]]でトルコオスマン軍に殺され敗死していた。しかし、カジミェシュは結局ハンガリー王位の獲得に失敗してポーランドに逃げ戻ることになり、再びヤン・ドゥゴシュの教え子となった。
 
親であるカジミェシュ4世は、長男ヴワディスワフ([[ウラースロー2世|ヴワディスワフ]]がボヘミア王位についた後、次男カジミェシュをポーランド王位の相続人と見做みなし、しばしば公の場に連れ出すようになった。1479年、国王はリトアニアに向こう5年間滞在することが決まり、カジミェシュ王子がポーランドで留守を守ることになった。1481年から1483年まで、カジミェシュはポーランド国家を大変な分別と公正さをもって統治してい。父王は彼を[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]と結婚させようとしたが、彼は独身でいることを望み、この縁談を断った。敬虔な信仰の発露としての極端な断食生活が彼の体を衰えさせ、彼は不治の肺臓の病、おそらく[[結核]]を病むことになった。1484年、カジミェシュはリトアニアへの旅の途中に[[フロドナ]]で没した。25歳だった。彼はリトアニア大公国の首都[[ヴィリニュス]]に埋葬され、現在も[[ヴィリニュス大聖堂]]の聖カジミェラス礼拝堂に彼の遺骸が安置されている
 
父王はカジミェシュを[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]と結婚させようとしたが、彼は独身でいることを望み、この縁談を断った。敬虔な信仰の発露としての極端な断食生活が彼の体を衰えさせ、不治の肺臓の病、おそらく[[結核]]を病むことになった。1484年、カジミェシュはリトアニアへの旅の途中に[[フロドナ]]で没した。25歳だった。リトアニア大公国の首都[[ヴィリニュス]]に埋葬され、現在も[[ヴィリニュス大聖堂]]の聖カジミェラス礼拝堂に遺骸が安置されている。
カジミェシュは大変な徳を以て生き、また国家を統治し、素晴らしい慈愛と叡智を持った人物として記憶されていた。彼はいくつかの奇跡を起こしたことで知られる。有名な奇跡には、リトアニアと[[東方教会]]に属する[[モスクワ大公国]]との戦い([[モスクワ・リトアニア戦争]])の最中の1518年と1519年に、リトアニア軍の前に彼が姿を現したというものがある。彼は1522年、教皇[[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]により列聖され、リトアニアの世襲領主であったことからリトアニア国家の[[守護聖人]]とされた。1948年6月11日、教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]はカジミェシュを全ての若者たちの特別な聖人であると宣言している。祝祭日は命日である[[3月4日]]。
 
カジミェシュは大変な徳をもって生き、また国家を統治し、素晴らしい慈愛と叡智を持った人物として記憶されていた。彼はいくつかの奇跡を起こしたことで知られる。有名な奇跡には、リトアニアと[[東方教会]]に属する[[モスクワ大公国]]との戦い([[モスクワ・リトアニア戦争]])の最中の1518年と1519年に、リトアニア軍の前に彼が姿を現したというものがある。カジミェシュは1522年、教皇[[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]により列聖され、リトアニアの世襲領主であったことからリトアニア国家の[[守護聖人]]とされた。1948年6月11日、教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]はカジミェシュを全ての若者たちの特別な聖人であると宣言している。祝祭日は命日である[[3月4日]]。
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[[Category:ハンガリー史の人物]]
[[Category:中世のハンガリー王国]]
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[[Category:ヤギェウォ家]]