「テオドリック (東ゴート王)」の版間の差分

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| 人名 = テオドリック
| 各国語表記 = Theodoric
| 君主号 = 東ゴート王<br>イタリア
| 画像 = Vischer-Theodoric.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = テオドリックの銅像。<br />{{仮リンク|ペーター・フィッシャー (父)|en|Peter Vischer the Elder}}作(1513年)。{{仮リンク|インスブルック宮廷教会|en|Hofkirche, Innsbruck}}所蔵。
| 在位 = 東ゴート王:[[471年]]<ref>『世界大百科事典 第2版』平凡社, テオドリック[大王]</ref> <ref>『日本大百科全書』小学館, テオドリック(大王)</ref><ref>『百科事典マイペディア』日立ソリューションズ, テオドリック[大王]</ref>- [[526年]]<br>イタリア王:[[493年]] - [[526年]]
| 在位 = [[493年]] - [[526年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
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| サイン =
}}
'''テオドリック'''('''Theodoric''', [[ゴート語]]:'''𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃''', [[454年]] - [[526年]][[8月30日]]、在位 : [[493年]] - [[526年]])または'''テオデリック'''(Theoderic, Theoderik)は、[[東ローマ帝国]]の[[軍人]]および[[政治家]]で、[[東ゴート王国]]の創始者。[[ラテン語]]では'''テオドリクス''' (Theodoricus)。しばしば'''テオドリック大王'''と呼ばれる。[[イタリア語]]では'''テオドーリコ''' (Teodorico)。
 
== 生涯 ==
[[東ゴート族]]の王子[[ティウディミル]]の子として[[454年]]に生まれ、10歳から18歳までを[[東ローマ帝国]]の[[人質]]として、少年期を[[コンスタンティノポリス]]の宮廷で過ごした。[[470年]]、ティウディミルが王位に就くと帰郷し[[470年]]から、[[マケドニア属州|マケドニア]]の[[テッサロニキ]]を占領した後に死亡する[[475年]]までの間に、父より東ゴートが死んだ位を継承したもで、と考えられている。王位を継承して暫くは東ゴート族の主導権を巡ってローマ軍の長官[[テオドリック・ストラボ]]と争い、[[東ローマ皇帝]][[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]との政治的な駆け引きを繰り返したが、テオドリック・ストラボは[[481年]]に急死し、[[484年]]までにはテオドリックが東ゴート族の指導者となった。
 
[[Image:Theoderich (Vischer).JPG|thumb|left|テオドリック大王のブロンズ像。(正面)]]
[[Image:Mausoleum of Theoderic.JPG|thumb|[[イタリア]]・[[ラヴェンナ]]に今も残るテオドリックの霊廟]]
彼はゴート族の主導権を巡って、ローマ軍の長官帝国より[[テオドパトック・スキ|パラボリキウス]]と争い(貴族)の地位を授与され、[[皇帝483年]][[ゼノン (には東ローマ)|ゼノン]]と政治的駆け引きを繰り返したが、[[マギスオドル・ミック・スラボが急死したため、東ローマ帝国に圧力をかけゥム|軍司令官]]、[[483484年]]には東ローマ帝国の軍事長[[執政]]任命された。
 
彼の東ゴート王国創設は、[[西ローマ帝国]]のイタリア長官に任命されていたいた[[パトリキ|パトリキウス]]に任命された親衛隊長[[オドアケル]]が、東ローマに内ゼノンと干渉を行っ治的に対立したことに端を発する。皇帝ゼノンは、テオドリックに[[イタリア遠征]]と、[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]を皇帝代理としてこれを支配させることを確約した<ref>これは、東ローマ帝国内に居座る東ゴート人を厄介払いしてしまおうと言うゼノンの思惑があった。</ref>ので、[[488年]]、彼は[[モエシア]]を経ち、[[489年]]、リュブリャナ平原の[[イゾンツォ川]]でオドアケルの軍勢を破ると([[イゾンツォの戦い (489年)|イゾンツォの戦い]])、[[ヴェローナ]]、[[ミラノ]]を占領([[ヴェローナの戦い (489年)|ヴェローナの戦い]])、西ゴートの援軍を得て[[ラヴェンナ]]を包囲した([[ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年)|ラヴェンナ包囲戦]])。[[493年]]、彼は、和平交渉によりラヴェンナ入城を果たし、降伏したオドアケルを和平の酒宴の席で暗殺した。彼は東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]<ref>ゼノンは[[491年]]に死亡していた。</ref>よりイタリアの[[総督]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任命され、イタリアの統治を委任された。また彼は自ら[[イタリア王]]の称号を名乗り、その称号も[[497年]]にアナスタシウス1世より公認され、これによてイタリアに[[東ゴート王国]]が誕生した。ただし、東ゴート王国は帝国の軍隊駐屯法に従って認められた帝国内での一[[領地]]という位置づけであり、その領土も住民も依然としてローマ帝国のものとされた。また、ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ、民政は引き続き西ローマ帝国政府の担当とされ、[[立法権]]は東ローマ皇帝が保持していた。
 
イタリアの統治を開始したテオドリックは、隣国との調停を計るため、[[フランク王国]]の王[[クロヴィス1世|クローヴィス]]の妹[[アウドフレダ]]を妻に迎え、娘を[[西ゴート王国]]の[[アラリック2世]]に、妹をヴァンダル王[[トラスムンド]]に嫁がせた。
 
彼を、そして東ゴート王国を最も悩ませたのは、宗教問題と後継者問題であった。テオドリックと、多くのゴート族は[[アリウス派]]であったが、[[カトリック教会|カトリック]]教徒であった皇帝[[ユスティヌス1世]]([[ローマ法大全]]を編纂させた[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス大帝]]の、叔父にして先代皇帝)はこれを迫害し、東ローマとの関係は次第に悪化した。また、彼自身は当時としては長寿であったが、テオドリックには後継者となる男子に恵まれず、東ゴート王国にとってはこれが最も致命的となった。
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*[[テオドリック廟]]
 
{{先代次代|[[東ゴート王国|東ゴート王]]|493471年 - 526年|[[ティウディミル]]|[[アタラリック]]}}
{{先代次代|[[イタリア王]]|493年 - 526年|[[オドアケル]]|[[アタラリック]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ておとりつく}}