「マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2016年9月}}
{{基礎情報 皇族・貴族
[[ファイル:Maximilian Saxony.jpg|thumb|マクシミリアン]]
| 人名 = マクシミリアン・フォン・ザクセン
| 各国語表記 = Maximilian von Sachsen
| 家名・爵位 = [[ザクセン王国|ザクセン]]王太子
| 画像 = Maximilian Saxony.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1759|4|13|no}}
| 生地 =
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1759|4|13|1838|1|3}}
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ]]
| 配偶者2 = [[マリーア・ルイーザ・カルロッタ・ディ・ボルボーネ=パルマ]]
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 父親 = [[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]
| 母親 = [[マリア・アントーニア・フォン・バイエルン]]
| 役職 =
| サイン =
}}
[[ファイル:Saxonia Museum fuer saechsische Vaterlandskunde IV 01.jpg|thumb|マクシミリアン、1839年の石版画]]
'''マクシミリアン・フォン・ザクセン'''(Maximilian von Sachsen, [[1759年]][[4月13日]] - [[1838年]][[1月3日]])は、[[ザクセン王国]]の王太子(1827年 - 1830年)。全名は'''マクシミリアン'''・マリア・ヨーゼフ・アントン・ヨハン・バプティスト・ヨハン・エヴァンゲリスタ・イグナツ・アウグスティン・クサーヴァー・アロイス・ヨハン・ネポムク・ヤヌアー・ヘルメネギルト・アグネルス・パスカリウス・'''フォン・ザクセン'''(''Maximilian'' Maria Joseph Anton Johann Baptist Johann Evangelista Ignaz Augustin Xaver Aloys Johann Nepomuk Januar Hermenegild Agnellus Paschalis ''von Sachsen'')。
 
== 生涯 ==
[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]](当時は世子)[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]とその妃であった[[神聖ローマ皇帝]]兼[[バイエルン選帝侯]][[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]の娘[[マリア・アントーニア・フォン・バイエルン|マリア・アントーニア]]の間の六男として生まれた。実質的な三男であるが、末息子であるためザクセン選帝侯家を継ぐ可能性は非常に低かった。ところが2人の兄、[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]および[[アントン (ザクセン王)|アントン]]には男子がなく、しかも兄たちの子供はフリードリヒ・アウグストの娘[[マリア・アウグスタ・フォン・ザクセン|マリア・アウグスタ]]を除いて全員が夭折しており、マクシミリアンが選帝侯家を継ぐことは1800年頃にはほぼ確実になった。1806年、[[ザクセン選帝侯領]]は[[ザクセン王国]]に昇格し、マクシミリアンはザクセン王子の称号を得た。
 
1827年に次兄アントンがザクセン王位を継ぐと、マクシミリアンは王太子となった。ところが1830年に[[フランス王国|フランス]]で起きた[[7月革命]]の煽りを受けてザクセンでも革命騒乱が起きると、マクシミリアンは王位継承権を放棄して王太子の地位を長男の[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト]]に譲った。マクシミリアンは王太子を退いて8年後、息子が王位に就いて2年後の1838年、7978歳で世を去った。
 
== 子女 ==
1792年、マクシミリアンは[[パルマ公国|パルマ公]][[フェルディナンド・ディ・ボルボーネ|フェルディナンド]]の娘[[カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ|カロリーナ]]と結婚し、7人の子女をもうけた。カロリーナは1804年に亡くなった。
#[[アマーリエ・フォン・ザクセン (1794-1870)|マリア・'''アマーリア'''・フリーデリケ・アウグスタ・カロリーナ・ルドヴィカ・ヨーゼファ・アロイジア・アンナ・ネポムツェーナ・フィリッピーナ・ヴィンツェンティア・フランツィスカ・デ・パウラ・フランツィスカ・デ・シャンタル]](1794年 - 1870年)
#[[マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア|'''マリア'''・フェルディナンダ・アマーリア・クサヴェリア・テレジア・ヨーゼファ・アンナ・ネポムツェーナ・アロイジア・ヨハンナ・ヴィンツェンティア・イグナティア・ドミニカ・フランツィスカデ・パウラ・フランツィスカ・デ・シャンタル]](1796年 - 1865年)…1821) - 1821年、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]と結婚
#[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|'''フリードリヒ・アウグスト'''・アルベルト・マリア・クレメンス・ヨーゼフ・ヴィンツェンツ・アロイス・ネポムク・ヨハン・バプティスタ・ニコラウス・ラファエル・ペーター・クサーヴァー・フランツ・デ・パウラ・ヴェナンティウス・フェリックス]](1797年 - 1854年)…) - ザクセン王
#'''クレメンス'''・マリア・ヨーゼフ・ネポムク・アロイス・ヴィンツェンツ・クサーヴァー・フランツ・デ・パウラ・フランツ・デ・ヴァロワ・ヨアヒム・ベンノ・フィリップ・ヤーコプ(1798年 - 1822年)
#[[マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア|'''マリア・アンナ'''・カロリーナ・ヨーゼファ・ヴィンツェンティア・クサヴェリア・ネポムツェーナ・フランツィスカ・デ・パウラ・フランツィスカ・デ・シャンタル・ヨハンナ・アントーニア・エリーザベト・クニグンデ・ゲルトルート・レオポルディーナ]](1799年 - 1832年)…1817) - 1817年、トスカーナ大公[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]と結婚
#[[ヨハン (ザクセン王)|'''ヨハン'''・ネポムク・マリア・ヨーゼフ・アントン・クサーヴァー・ヴィンツェンツ・アロイス・フランツ・デ・パウラ・スタニスラウス・ベルンハルト・パウル・フェリックス・ダマスス]](1801年 - 1873年)…) - ザクセン王
#[[マリア・ホセファ・デ・サホニア|'''マリア・ヨーゼファ'''・アマーリア・ベアトリクス・クサヴェリア・ヴィンツェンティア・アロイジア・フランツィスカ・デ・パウラ・フランツィスカ・デ・シャンタル・アンナ・アポロニア・ヨハンナ・ネポムツェーナ・ヴァルブルガ・テレジア・アンブロージア]](1803年 - 1829年)…1819) - 1819年、[[スペイン王]][[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]と結婚
 
1825年、マクシミリアンは[[エトルリア王国|エトルリア王]][[ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ|ルドヴィーコ1世]]の娘で、先妻カロリーナの姪にあたる[[マリーア・ルイーザ・カルロッタ・ディ・ボルボーネ=パルマ|マリーア・ルイーザ・カルロッタ]]と再婚した。新妻はマクシミリアンより43歳も年下だった。2人の間に子供はなかった。