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1920年代から1930年代頃に発展したアメリカ民俗学での知見を取り入れ、それまで史料学の分野であった考古学に、自然人類学([[民族学]])、文化人類学([[社会人類学]])な視点を加えて、日本や朝鮮での古代神話を比較し、比較神話学などにおいて業績を残した<ref>{{Kotobank|三三品彰英|2=世界大百科事典 第2版}}</ref><ref>{{Kotobank|考古学|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。特に建国神話における日本と周辺諸国の神話や伝説の考察では、例えば[[辰国]]は史書の編纂者による創出であり歴史的実在は疑問だ、と説く<ref>{{Kotobank|辰国|2=世界大百科事典}}</ref>など、文献上の矛盾を指摘し、先駆的だとして高い評価を得ている。
 
一方で、戦後の韓国の研究者からは、朝鮮史が[[黎明期]]から外の支配下で成り立っていただけではなく、朝鮮史の全過程を通じて外の支配に貫かれており、朝鮮史の対外関係だけでなく、朝鮮国内の[[政治]]・[[文化]]の諸情況も外が支配するようになり、朝鮮史全体が外力への依存的[[事大主義|事大的]]なものであり、ひいては朝鮮人の民族性までが事大的・依他的・依頼的な性格になったという[[朝鮮の歴史観#植民史観|他律性論]]を主張した研究者として、指弾されている<ref>{{Harvnb|李|2005|p=249}}</ref>。
 
『朝鮮史概説』([[弘文堂書房]]、[[1940年]])の序説では、「朝鮮史の他律性」という題を付け、朝鮮史の性格を[[付随性]]・[[周辺|周辺性]]・多隣性として、朝鮮史を規定する最大の要因は、[[半島]]という地理にあり、[[アジア大陸]]に付随する半島は、政治的・文化的にも大陸で起きた変動の影響を受け、周辺に位置することにより本流から離れてしまう半島の付随性を主張し<ref>{{Harvnb|李|2005|p=248}}</ref>、「このように周辺的であると同時に多隣的であった朝鮮半島の歴史においてこの2つの反対作用が、時には同時に時には単独で働き、複雑極まりない様相をもたらした。[[東洋史]]の本流から離れているのに、いつも1つ或いはそれ以上の諸勢力の影響が輻輳的に及んだり、時には2つ以上の勢力の争いに苦しめられたり、時には1つの圧倒的な勢力に支配されたりした」として朝鮮史の多隣性を指摘し<ref>{{Harvnb|李|2005|p=248}}</ref>、朝鮮では政治文化で[[弁証法|弁証法的]]な歴史発展の足跡が甚だしく欠乏してしまい半島的性格を持つ朝鮮は、古くから中国の[[典礼|典礼主義的]]・[[主知主義|主知主義的]]な支配を受け、理想的な蕃夷として褒めたたえられ、次は[[満州]]・[[モンゴル]]の[[征服|征服主義的]]・[[主意主義|主意主義的]]な侵略を受けたが、それは「政治と分化を伴わない力だけの征服」であり、この半島的性格は事大主義という朝鮮史の性格の形成につながり、「絶対的存在とされた国の勢力に従い、その権威の下で藩属になり、[[依存|依存主義]]によって国の維持を図ったこと」を規定した<ref>{{Harvnb|李|2005|p=248}}</ref>。
 
そして、「このように周辺的であると同時に多隣的であった朝鮮半島の歴史においてこの2つの反対作用が、時には同時に時には単独で働き、複雑極まりない様相をもたらした。[[東洋史]]の本流から離れているのに、いつも1つ或いはそれ以上の諸勢力の影響が輻輳的に及んだり、時には2つ以上の勢力の争いに苦しめられたり、時には1つの圧倒的な勢力に支配されたりした」として朝鮮史の多隣性を指摘した<ref>{{Harvnb|李|2005|p=248}}</ref>。
 
そして、朝鮮では政治文化で[[弁証法|弁証法的]]な歴史発展の足跡が甚だしく欠乏してしまい半島的性格を持つ朝鮮は、古くから中国の[[典礼|典礼主義的]]・[[主知主義|主知主義的]]な支配を受け、理想的な蕃夷として褒めたたえられ、次は[[満州]]・[[モンゴル]]の[[征服|征服主義的]]・[[主意主義|主意主義的]]な侵略を受けたが、それは「政治と分化を伴わない力だけの征服」であり、この半島的性格は事大主義という朝鮮史の性格の形成につながり、「絶対的存在とされた国の勢力に従い、その権威の下で藩属になり、[[依存|依存主義]]によって国の維持を図ったこと」を規定した<ref>{{Harvnb|李|2005|p=248}}</ref>。
 
{{Quotation|最後に日本だ。・・・要するに、我々の古代朝鮮経営においても、また最近世のそれにおいても見られるように、それは征服主義でもなく、利己主義からのものでもない。昔は百済や任那を保護し、それによって彼らに国を樹立させた。それは真に平和的かつ愛護的な支配だと言うべきである。蒙古のように意志的で征服的なものでもなく、支那のように主知的で形式的なものでもなかった。・・・日本のそれは主情主義的で愛好主義的で、彼我の区別を越えたより良い共同世界の建設を念願したものであった。・・・優れた歴史世界を建てた日本が、この同胞として彼らを抱え込んだのは、彼らをその古里に呼び戻すことである。ここに初めて本来の朝鮮としての再出発がある。・・・今、その歴史を見ると、朝鮮は支那の智に学び、北方の意に服し、最後に日本の情に抱かれ、ここに初めて半島史的なものから脱する時期を得たのである。|三品彰英『朝鮮史概説』p6-p7}}